この記事は、2月27日の “The Guardian” 紙に掲載されたBen Fisher記者による記事を全文翻訳したものです。2014年に短い間リーズを率いたデイヴ・ハッカデイ氏のインタビューです。
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贅を凝らしたドロミテでの滞在から、深夜1時にかかってくる電話、そしてエランド・ロードでのマッシモ・チェリーノの「ご厚意による」説教に至るまで。あまりにも多くの戸惑い、そして困惑に満ちた日々は、デイヴ・ハッカデイが本を出版できるほどのものだ。そうとしか言えないから、1時間のインタビューをもってしても、我々は彼が体験した70日間の手に汗握るリーズ・ユナイテッドでの日々の一端を、辛うじて窺い知ることができただけのように感じる。
およそ5年前、この国で最も栄誉あるクラブの監督職を、たった3度のオーナーとの会談を経て人知れず得た男がいる。今、61歳となった彼は、リーズの前体制下におけるカオスの最初の犠牲者となった。
残り8分の段階までリードし、結果的に最後の試合となったブラッドフォード戦で情勢を変えられなかった後悔を除けば、彼はドン・レヴィー(1961-74 リーズ監督)のような監督の後を継ぐ存在になれたことを心から誇りに思っている。しかし、2016年からブリストル郊外にあるSouth Gloucestershire and Stroud college (SGS)の男子フットボール部で最高責任者を務めるデイヴ・ハッカデイが語った内容は、実に驚くべきものだ。彼はリーズを率いていた当時よりも、現在のSGSでの方が、優れた人的リソースを手にしていると言うのだ。
「ありえないことだが、私は盲目の状態でチャンピオンシップの試合を戦っていた。(マルセロ・)ビエルサはありとあらゆるデータを用いて試合に臨んでいるようだが、我々の時は何もなかった。マッチアナリストは1人、フィジカルコーチも1人で、ただただアンプロフェッショナルだと思ったね。そんなものは役立たずだったし、とにかく相手チームの情報を得ることに必死で、彼らと直近で戦ったチームの監督に電話したこともあった。ほぼ何もないという意味では、爆心地に来たようなものだったよ」
ハッカデイは最初のチームミーティングの時、前職がフォレストグリーン・ローヴァーズの監督だった彼のことを、選手たちが「誰だこいつ?」と言っているも同然の顔で見ていたと振り返る。誰しもが感じる1つの大きなミステリーは、どのようにして彼が、自ら応募することもなくリーズにやってこられたのかという点だ。彼によれば、これは就任会見を開く前でさえ尋ねられた、お決まりの質問なのだという。
「実に非現実的で、本当に『外套と短剣』っていう言葉が似合うよね。彼の監督との接し方は知っていた(チェリーノはカリアリでの22年間のオーナー時代に36人の監督を解任した)し、『イタリアで有名な監督か、イングランドの事情をよく知っていて、かつ監督というよりもファーストチームコーチとして彼をサポートする人を探しているのかな? それともU23でやっているような監督を連れてきて、新しい選手を使おうとするのかな?』と考えていた。私はまさに最後のタイプだったね」
「でも彼は『‘私の’ヘッドコーチになってほしい』と言ってきた。『それは‘あなたの’監督のような感じですか?』と言ったら、『そうだ、‘私の’コーチになってほしい』と言われた。おもしろいと思ったけど、ちょっとポーカーのような駆け引きを仕掛けてみることにした。『コーチングを主導できるのなら問題ありません。でもいくつか話し合わないといけないことがありそうですね』と言ったんだ。すると彼は、『使いたい選手を言ってもらうのは構わないが、最終決定権は私にある。君がチームを決め、君が練習を仕切る。そこには口出ししない』とね。まあ実際は、全くそんなことはなかったんだけど」
(リーズ監督時代のハッカデイ氏)
ハッカデイは何人かの選手の獲得を進言したが、結局はセリエBから獲得した選手たちを押し付けられたと感じている。
「彼から、『点を取れて後々高値で売ることができそうな、若いこれからのストライカーを取るんだ』と言われた。私は『アンドレ・グレイ(当時ルートン、現ワトフォード)です』と答えた。数日後、『グレイはダメだ。彼とその代理人と話したけれども、高すぎる』と言われた。『ルートンからリーズ・ユナイテッドへの移籍で‘高すぎる’んですか?』と言ってしまったよ。その後彼は、(ミルコ・)アンテヌッチを取りに行って、数百万ポンドを使ったね」
「誰彼構わずカンフーをして、いつも退場する」ガエターノ・ベラルディや、「自分のことをハードな男だと思っているが、実際はどうしようもない子猫ちゃん」なジュゼッペ・ベルッシの獲得により、ハッカデイのフラストレーションは増していった。そして彼曰く、ヴィルジル・ファンダイク(当時セルティック、現リヴァプール)やクレイグ・キャスカート(当時ブラックプール、現ワトフォード)、マーク・ハドソン(当時ハダースフィールド、現在は引退)といったセンターバックたちの推薦は無視されたという。コナー・コーディー(現ウォルヴズ)はフリーで獲得することさえ可能だったが、どのみちチェリーノに承認されることはなかった。
「本当に最悪だよ。今でも思い出すと涙が出そうだ。今では影も形もないようなあのイタリア人たちを取っている間に、私が推薦した選手たちの獲得にはNOを突き付けられて、頭を抱えてしまった。こう言わざるを得ないが、私の心を折ったのはまさにそれだよ」
ハッカデイは、彼曰く「大統領閣下」と言われるのを好むチェリーノを説得するために、練習後にご飯を奢ることもあった。
「私はそれまでもU23や落ちこぼれの集まったチームを中心にやってきた人間だ。だが、これまで選手として、監督として、それ以外にコーチなども含めて経験したすべてのチームを振り返っても、あれ以上機能不全に陥っていたチームは見たことがない。酷い環境だった。今、ソープ・アーチ(リーズの練習場)のプールでどんな練習をしているのかは知らない。でも、私たちの時のプールは西部劇におけるタンブルウィード(乾燥地帯特有の草)みたいなもので、誰も使っちゃいなかった。それはもう素晴らしい、でも豚に真珠の施設だったね」
しかし本当の楽しみ、そしてゲームは、ヨークシャーに帰ってきた時に始まったのだとハッカデイは証言する。きっかけは、彼とコーチのニール・サリヴァンが、ゴールキーパーのマルコ・シルヴェストリをトップチームの練習から外し、キックの練習に専念させたことだった。
「すぐにイタリア人たちが大統領にチクったんだってわかったよ。チェリーノから電話が来て、『エランド・ロードに来なさい』と。それで行ったら、「何をしたんだ。‘私の’ゴールキーパーに恥をかかせたのか?」と言われた。『ちょっと待ってください。彼の足元の技術についてどう思いますか?』と聞いたら、『良くないね』と返してきた。『練習が必要だと思うでしょう?』『そうだな』『我々がやったことを知っていますか? 彼を別のフィールドに連れていって、その練習をしてもらっただけです』『良い仕事だ。よくやった』。こんなことは日常茶飯事だったよ」
ハッカデイも、今では笑い話としてこれらを振り返ることができるようになった。
「彼は毎日のように、あらゆることで電話をしてきた。しかも夜の1時とかにだよ。私もちょっと馬鹿なもので、だいたいその電話には出ていたよ。彼が『コーチ』と呼んできて、私が『はい、大統領閣下』と答える。ある時彼は、『君は優秀なイングランドのコーチではない』と言った。心の中で『は?』と思っていたら、『君は1日に3度練習をする、優秀なイタリアのコーチだ。私は好きだ。続けてくれ』と続けてきた。彼はスパイを放っていて、彼らがそれを(チェリーノに)報告していたんだ。私はこのチャンスを貰ったことにとても恩義を感じていたから、彼が投げつけてきたものすべてを呑み込もうとしていた。彼は、言うなれば脆弱な、良いコーチを求めていた。『君をがっかりさせてしまうことがあるかもしれない』とは言われていたが、突然電話をかけてきた時には、正直にその気持ちを伝えたこともあったよ」
SGSに加わってからというもの、ハッカデイは大きな成功を収めている最中だ。彼は教育を受けることの価値を認識している。元々ブラックプールと契約していなければ、彼はシェフィールド大学でビジネスを学んでいただろうし、現役生活を続ける中でも土木工学と会計学を学んでいた。ブライトンに入ったDFカスパー・ロパタや、ブリストル・シティに入ったFWアントワン・セメンヨは最近のSGSの成功を物語る代表例で、同じくブリストル・シティのFWサイク・ジャネ(現在はトーキーにローン中)もフルタイムプログラムの卒業生だ。
「私はここにレガシーを残したい。素晴らしい何かをここに残そうとしているんだ」
リーズに関してはどうか。彼は笑顔を見せた。
「素晴らしい経験だったし、自分自身について多くのことを学べた。『クソな状況に対処できるか?』ああ、間違いない。『あのレベルの選手たちを御しきれるか?』たぶんできる。今では1人の熱心なリーズファンになったし、彼らをとても愛している。たった3ヶ月だったけど、人生の重要な一部分だよ」
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