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ストーク発サンティアゴ行き ベン・ブレアトン・ディアス、時代が生んだヒーローの足跡




これはベンジャミン・アンソニー・ブレアトン・ディアスの嘘のような真実の物語だ。親子3代に渡る家業によって得た2つの国籍。16歳で一旦は諦めかけた選手としてのキャリア。ゲームと現実を結び付けようと尽力する人々の熱意が生んだ代表招集。世界各地に散らばった点がかつてなく複雑な線上に重ね合わさり、一夏の内に彼は正真正銘のヒーローとなった。2021年、スタッフォードシャーが、ブラックバーンが、南米チリが、#BreretonMania に熱狂した。


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「私たち家族は皆妹の家に集まり、試合を見ていました。あのゴールの瞬間、主人は両手で顔を抑え、ヒステリックに泣いていました。もちろん私たちも、ただただ泣いていました」


豊かな自然に包まれた自宅で、アンドレア・ディアスが「あの」ボリビア戦を回想する。それは自慢の息子が22歳にしてスターダムを駆け上った日のこと。イングランド中がスコットランド戦での母国のパフォーマンスに落胆する中、スタッフォードシャーに居を構えるディアス一家は、海を隔てた祖国での信じがたい光景に思いを馳せていた。


主役の名前はベン・ブレアトン・ディアス。ブラックバーン・ローヴァーズに所属する、チリ代表のエースである。





物語の始まりは1世紀以上前、アンドレアの祖父フアンが家業として陶芸を始めた時にまで遡る。フアンから事業を受け継ぐことになった息子のヘナーロは、(ストーク・シティのPotteriesのニックネームが表すように)陶器の街として知られるストーク・オン・トレントで修行の日々を過ごした。


「父はイングランドで4年間学び、私の母と出会いました。その後コンセプシオンに戻り、そこで生まれたのが私と妹です。私は1986年、15歳の時にコンセプシオンからイングランドに渡りましたが、別にチリが嫌いになったわけでもなく、父と同じように勉強しに行くだけだと考えていました。しかし結果的には今の夫と結婚し、イングランドで2人の子どもを生みました」


警察官でサンデーリーグフットボーラーでもあった夫マーティンとの間にアンドレアが授かった息子の1人は、その環境の影響もあってかフットボールへの興味を示し、またより重要なことに、早いうちから並外れた才能を見せていた。


「ベンは歩き出した時からもうボールを使って遊んでいましたし、4歳の時にあるクラブの練習に連れていくと、出会った人皆が口を揃えて彼のことを褒めてくれました。7歳の時にマンチェスター・ユナイテッドのアカデミーに入り、14歳の時まで所属していましたが、その時は車の中で食事と学校の宿題を済ませるような生活でした。彼は全ての物事にとても真面目に取り組んでいましたよ」




ベン・ブレアトン(ここではあえてそう呼ぼう)が最初の壁に直面したのは、16歳の時だった。

まだ何もわからないまま」14歳でマンチェスター・ユナイテッドからリリースされた彼は、すぐに地元の心のクラブであるストーク・シティに拾われた。しかしその2年後、ブレアトンはストークからもリリースされることとなる。


「若いうちには人生の様々な可能性を考えるものです。2度目のリリースを通告された後、もしかしてフットボールは自分には向いていないのではないかと考えました。その時は父親も一緒になって考えてくれた結果、プレイを続けることにしました。家族が僕の決断を応援してくれたことも大きかったです」


ノッティンガム・フォレストが彼に救いの手を差し伸べた。当時の彼のプレイスタイルは今よりもクラシックな9番としての色合いが強く、アカデミーでの20試合15ゴールという圧倒的な結果からすぐにトップチームでの機会が与えられ、イングランドの世代別代表にも常連として名を連ねるほどの存在となった。


しかしその鮮烈なデビューが故に、ユース出身のスター誕生を渇望していたフォレストファンからの期待は、ティーンエイジャーの若者に大きな負担となってのしかかった。

2018年、600万ポンドの移籍金でブラックバーンに移籍。ここでもその実績に比して高額な額面の数字は、彼のブレイクスルーの行く手を阻んだ。18/19と19/20の2シーズンの間に、ブレアトンは2ゴールしか挙げることができなかった。


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人々はそれぞれの役割を果たし、自らの夢を託した


「あまりプレイできなかった2年間の間にも、学んだことはたくさんありました。その時間の中での小さな積み重ねの数々は間違いなく今に繋がっていますし、自分のあるべき姿・場所を形作っているものだとも思います」


移籍後の低迷期となった2年間をブレアトンはポジティヴに振り返る。しかしその中での最大の転機は試合でも練習でもなく、2018年、彼自身でさえ気にも留めなかったような一つのインタビューだった。


そのインタビューは、マッチデイプログラム内のコンテンツとしてクラブが実施した “A to Z” という企画。文字通り全てのアルファベットの頭文字から始まるキーワードを軸とした質問コーナーで、ファンに新加入選手のパーソナリティを知ってもらうためのプログラムだ。


T - Television での “Game of Thrones” という回答と、V - “VIDEO GAMES” という質問の間に挟まれた U - Unknown、「まだ知られていないあなたの情報を教えてください」という質問に対し、ブレアトンは自身がイングランドとチリのハーフであると答えた。「だから多分、チリ代表にもなれるはずなんですよ」と最後に付け加えて。


Blackburn Rovers FC


「友人のビル・キングがそのことを教えてくれて、私は最初読み飛ばしていたんですが、インタビューを見返してみると確かにそう書いてありました。ちょうどその時期は新しいシーズンに向けたデータのアップデートをしている最中だったので、すぐに彼の国籍にチリを加えることができました」


ブラックバーンのシーズンチケットホルダーであり、Football Managerのリサーチャーとしてブラックバーンを10年以上に渡って担当しているマーク・ヒッチンの発見がなければ、この事実が海を越えることはなかったかもしれない。もっともこの時点では、人知れず追加されたブレアトンの第2国籍に注目が集まることはなかった。


ヒッチンが再び大きな役割を果たすのは2年後、ロックダウン後の彼のパフォーマンスの変化に目を付け、FM21での能力を上方修正した時のことだ。ゲーム上でより魅力的な選手となったブレアトンはこの段になり、多くのフォロワーを持つチリのFM配信者、アルバロ・ペレスに発見されるに至る。


「ベンを見つけたのはFM21のベータ版で検索をかけている時でした。チリ代表をより強くするための選手を探していて、『ブラックバーンでプレイしているイングランドとチリのハーフ』がヒットしたんです。金曜の朝5時に見つけて、仲間の配信者やチリでFMのリサーチャーをやっている友人にも話して、その日の内にTwitchでハッシュタグキャンペーンを始めました」


「我々の代表はストライカー不足に悩まされていました。エドゥ・バルガスはもう若くなく、アレクシス・サンチェスは怪我に悩まされ続けていて、ここ6,7年の間に試してきた前線の選手の数は計り知れませんでしたから」


ペレスが作った #BreretonALaRoja のハッシュタグはその週末にすぐ拡散され、英雄の誕生を渇望するチリのフットボールファンに大きな希望を与えた。月曜日にはいくつかの新聞までもがこの件を報じた。そして翌日火曜日、プレストンとのダービーマッチに臨んだブレアトンは、1ゴール1アシストの活躍を見せた。



かくして、ブレアトン旋風はその勢いを増していく。



チリFAがブレアトンに関心を寄せたのはこの少し前、2020年7月のことだった。そしてここにも1人、ブレアトンとチリの関係を結んだ大功労者の存在が浮かび上がる。


「(コパアメリカの期間中は)皆が彼のことを話していました。それは素晴らしいことだった一方で、ここまでの社会現象的な出来事になるとは思ってもみなかったというのも正直な感想です。とはいえ摩訶不思議なことだとは思いません。『イングランドからやってきたチリのために戦う男』。どんな人もやはりヒーローを愛するもので、ベンはその人物像にぴったりと当てはまっていました。初先発で点を取ったのですから、あとは自然な流れでした」


奇遇にもブレアトンと同じ名前を持つその男は、フルネームをベン・コービンという。「チリ」、「コービン」。イギリスの政治に精通している方であれば、この2つのキーワードでピンときたかもしれない。そう、彼はあの元労働党党首、ジェレミー・コービンの息子だ。


そしてこちらのベンもまた、イギリスとチリのハーフである。彼の母でありジェレミーの2番目の妻であるクラウディア・ブラチッタは、11歳の時に独裁者アウグスト・ピノチェトから逃れるためにイギリスへと移民してきた。「チリの影響」を多分に受けて育ったという彼は自然な流れでフットボールに惹き込まれていった。


UEFA Bライセンスを取得し、アーセナルやワトフォードのアカデミーでの指導歴を持つコービンがチリFAとの関わりを持ったのは2013年、ウェンブリーでのイングランド戦を控えたチリ代表が(コービンがコーチをしていた)バーネットの練習場を拠点とした時のこと。

その後時にはマンチェスター・シティへのコーチ派遣プログラムで、時には議会への訪問で、彼は英国におけるチリFAの翻訳者兼ファーストコンタクトとして両国間のパイプ役を担っていた。


しかしブレアトンと彼の物語は、従来の業務よりも些か直接的なきっかけからスタートした。


「チリ代表になれる可能性のある選手を世界中で探しているアナリストからの連絡がきっかけでした。彼はブラックバーンTVでベンが出自を語っていたインタビューを見て、『ベン、何としてでもベン・ブレアトンと私を繋いでくれ』と言ってきました。こっちに選択の余地なんかなかったですからね!」


コービンは何とか、ブレアトンのエージェントであるオリー・ヘンリーと連絡を取ることができた。


「オリーには『もし彼が国籍を取得できるのであれば、チリ代表がかなり真剣に関心を寄せていますよ』と伝えました。FAからブラックバーンに直接連絡できなかったのは、その時点では(パスポートを持っていないため)代表招集できなかったからです。なのでまずはベン本人に連絡して必要な書類を集めてもらってから、オフィシャルなアプローチをするしかありませんでした」


「その後は領事館との間でうんざりするような長い手続きのプロセスが待っていました。最初の登録は他の申請が溜まっていたため3,4ヶ月先まで予約が埋まっているような状態でしたが、知り合いに領事館の職員がいたので、彼経由で全てのプロセスを迅速に行うことができたのが何といっても幸運でした。それでもまだパスポートの発行手続きが残っており、結局これは間に合いませんでしたが、代わりに臨時用のものが発行され何とかチリに渡航することができました」



2021年5月、数多くの人々が紡いだ過去に類を見ないエフォートのリレーは、コパアメリカに臨むチリ代表へのベン・ブレアトンの招集という、一つの巨大な成果を生んだ。





人生を変えた夏


「(もし1年前の自分が今起きていることを聞かされたとしたら)『こいつ、イカレてるな』と言うでしょうね。それくらい、言葉では形容しがたい数ヶ月間でしたよ。違う大陸に行きピッチに立ち…本当に楽しかった。本当に素晴らしい経験で、一生忘れられない経験になりました」


チリ国旗を背負った彼の背中には、“DIAZ” の4文字が付け加えられた。ベン・ブレアトンからベン・ブレアトン・ディアスとなった瞬間。息子の代表招集の報に涙を流して喜んだ母アンドレアの強い要望によるものだった。


20/21シーズン最終戦、誰もが気にも留めないバーミンガムとの消化試合を終え、ブレアトン・ディアスはサンティアゴへと向かった。それは彼と、彼の家族と、チリ国民にとっての夢の始まりである。



経由地マドリードの空港職員がいきなり彼の行く手を阻んだ。その立場を考えれば無理もない。彼らの目の前に現れたのは、ストーク・オン・トレント出身と書かれた臨時パスポートを持ち、スペイン語を一切話すことができない、チリ代表としてコパアメリカに参戦しに行くのだと言い張る22歳の男だったからだ。


「臨時パスポートはただの小さな黄色い紙のようなものでした。彼らはそれが何かを理解しておらず、おまけに英語も話せないので通訳を通す必要もある。職員の片方はチリ人の方でしたが、『チリ代表としてプレイするために行くんだ』と言っても、当然僕の名前にピンときていない。最終的にはその臨時パスポートの正当性を証明する書類を提示することができて通してもらえましたが、当然飛行機に乗るのは最後になってしまい、僕を含めて機内にいる全員が腹を立てていましたね」


それ以降、彼のアイデンティティ、そして言語の問題が障壁となることはなかった。チリ代表のチームメイトたちは全員がブレアトン・ディアスに握手を求め、スペイン語が話せない「新入り」の彼を輪の中に加え入れた。クラウディオ・ブラーボフランシスコ・シエラルタ(ブレアトン・ディアスと同い年でもある)といった英語が話せる選手の存在も大きかった。


そしてブレアトン・ディアス自身に特別な実感を与えたのは、アルトゥーロ・ビダルアレクシス・サンチェスといったA級スターとの邂逅だった。


「初めて会った時は、やはり『おお!』と思いましたよ。彼らは練習のセッション一つ一つに全てを捧げていました。ビダルサンチェス、(ガリー・メデル…。フットボールを愛し、同じくらいチリのことを愛している人たちです。同じピッチに立てて、ただただ光栄と言う他にないですね」



最初の頃のセッションでは鳥かごをやっても「すぐ真ん中に行ってしまう」ほどに周囲のレベルを痛感した。それでもグループステージを迎える頃には自身のあらゆる面に自信が持てるようになり、準備ができていると感じるようになった。


グループステージの初戦、彼の出来をいち早く見たいと考えた監督のマルティン・ラサルテは、77分に彼を途中投入することを決めた。相手はアルゼンチン。ピッチに向かったブレアトン・ディアスの対角には数々のスター選手、そして7度のバロンドール受賞歴を持つ「世界最高の選手」さえもがいた。


「それはもう、緊張していました。ソワソワして立ち止まることができず、ひたすら走っていましたよ。10分そこらなのにクタクタになりましたからね!それでも投入された時はなるべく周りを見ないようにして、自分の仕事に集中するようにしました。実感が来たのは試合後で、少し座って落ち着いて考えた時に、『ああ、こんな経験はそうできるものではないよな』と思いました」


もちろん彼にとって、リオネル・メッシのような選手と同じピッチでプレイするのは、これが初めての経験だった。試合後のトンネル内、選手たちが互いに労をねぎらう中で、ブレアトン・ディアスも同じ輪の中にいた。


しかし、彼には心に決めていたことがあった。「誰ともユニフォームを交換しない」。理由は2つ。1つはチリ代表のチームメイトたちから『お土産を持ち帰りに来た奴』とだけは思われたくなかったから。もう1つはこのユニフォームは彼だけのものではなく、この瞬間を誰よりも喜んでくれた家族のものでもあったからだ。


「初めてこういった大会へ参加していたわけですから、誰ともシャツを交換する気はありませんでした。ここにはフットボールをしに来ているのだし、やはり帰って家族に渡したいという思いもありました」


ブレアトン・ディアスが求めていたのはピッチ上での結果だけだった。そしてその絶好のチャンスが、次のボリビア戦で巡ってくることになる。皮肉にもきっかけは、ピッチ外でも彼をサポートしてくれていたサンチェスの負傷だった。


「ボリビア戦の前夜のことでした。最後の練習の後に監督に呼ばれて、『準備はできているか?』と聞かれ、もちろんです、と答えました。いかんせん前日のことですから、正直なところ良い睡眠は取れませんでしたよ。でも起きた時は、『先発で行けるんだ!』とハッピーな気分でした」


ベン・ブレアトン・ディアスの人生は、この日を境に変わった。1つの試合が、1つのゴールが、その運命を変えた。



「あのセレブレーションを見ればその時の僕の感情は容易に想像できると思います。家族も興奮してくれているだろうなと思っていました。僕は普段そんなに派手に喜ぶタイプの選手ではありませんが、この時ばかりはどうすればいいかわからないくらい昂っていました。とりあえず走りました!今自分が何をしているのか、どこにいるのか、それすらもわからないくらいでした」


1-0で勝利した試合後、チリ代表を乗せたバスがホテルへと戻った。サンチェス、ビダルに続いてバスから降りたブレアトン・ディアスの耳を、割れんばかりの大歓声が包んだ。大挙したサポーターは、ただひたすらに、「ブレアトン!ブレアトン!」と叫んでいた。


「ホテルに帰り、食事を取り、一息つきました。自分の部屋に戻った時、時差があるのでイギリスでは朝の4時か5時になっていたと思いますが、多くの友人がメッセージを送ってくれていました。家族とはFaceTimeで話しもしました。父はあの試合後、興奮しすぎて2日間は眠れなかったそうです」


この瞬間を生んだビッグパートの一つであるソーシャルメディア上では、まさしく「祭り」が起こっていた。ブラックバーンのアカウントにはスペイン語のコメントが溢れかえり、「ブレアトンを大統領に!」という書き込みさえも見られた。



この後のウルグアイ戦でもアシストを記録しチリの決勝トーナメント進出に貢献したブレアトン・ディアスの活躍に、ブラジル紙 “O Globo” はグループステージのベストイレブンという称号を与えた。3トップの中央に名を連ねた彼の両脇には、メッシネイマールという名前があった。


チリ代表は準々決勝でブラジルに敗れ、ブレアトン・ディアスのコパアメリカは終わりを迎えた。

しかし彼がチリ国民と共に歩む旅路は、まだ1ページ目を閉じただけに過ぎない。


国民的スターとなった彼には、数々の商業的なオファーが舞い込むようになった。その中には、チリ政府から依頼されたワクチン接種のプロモート動画への出演という仕事さえもあった。スポーツ大臣のセシリア・ペレスがそれを投稿したことも、彼の知名度をさらに広げることに繋がった。



彼はペプシのイメージキャラクターにもなった。比較のために付け加えると、これはアルゼンチンではリオネル・メッシが、イギリスではデイヴィッド・ベッカムが担っていたのと同じ役割である。



最初の頃には街を歩いていても誰にも認識されなかったビッグ・ベンは、一夏にして国民のヒーローになった。


ある日彼がFaceTimeをしながら歩いていると、いつの間にか周りに警官が集まっていることに気付いた。トラブルに巻き込まれたと思い電話を切ると、彼らはただ一緒に写真を撮りたがっていただけだとわかった。警官の父マーティンを持つブレアトン・ディアスは、写真だけでなく彼らと一杯酒を飲み交わしたという。


マドリードの空港で必死に身分を説明していた時には2万人程度だったインスタグラムのフォロワー数は、チリからの出国時、90万人近くにまで増加していた。




His Game


そして現在にまで続く新たな物語が始まる。その活躍は、決して「一夏の偶然」などではなかったのだ。


イングランドへの帰国直後、ブラックバーンのクラブ公式チャンネルのインタビューに答えた彼は、「1万いいねが集まれば登録名を変える」と公約した。おびただしい数のスペイン語のコメントとともに、いいね数は5桁を超えた。


ブラックバーンのユニフォームにも、 “DIAZ” が加わった。



ここでは便宜上、昨シーズンまでを “BC” (Before Chile)、今シーズンを “AD” (After Diaz)と呼ぶことにしよう。

両者の違いは、まずもってこのシンプルなスタッツから見て取ることができる。


BC:リーグ戦145試合出場、17ゴール

AD:リーグ戦26試合出場、20ゴール(2022/2/4時点)


40ゴール超えのペースを維持するアレクサンダル・ミトロヴィッチにこそ及ばないものの、BC時代の成績を考えればまさしく人が変わったかのようなペースで得点を量産し続ける彼の存在は、現在2位につけるブラックバーンの躍進の中核を担っている。



ではなぜブレアトン・ディアスはここまでの変貌を遂げたのか。その理由を紐解いていく上では、今シーズンのチームとしてのスタイルの変化から説明する必要があるだろう。


ブラックバーンは昨シーズン、リーグポゼッション率でノリッジに次ぐ2位(57.67%)の数値を記録していた。しかし今シーズンは一転、29試合を消化した時点で最下位(42.11%)の数値となっている。


このスタッツが示すのは、ハーヴィー・エリオットを中心としたスターローニーたちがそれぞれのクラブに帰還し、xG無視のショットモンスターとしても知られた28得点のアダム・アームストロング売却も余儀なくされた中で、ボール支配からカウンター中心の路線へと舵を切ったトニー・モウブレイの選択である。


その戦術において大きな役割を果たしているのがブレアトン・ディアスである。今シーズンのヒートマップを見てみよう。



様々なパターンを試してはいるものの、基本的に今シーズンのブラックバーンの前線はブレアトン・ディアス、サム・ギャラガータイリース・ドーランの3人で組むことが多い。この3トップでは、元々ウインガーで最も小柄なドーランがフォルス9に入り、共に190cm超のブレアトン・ディアスとギャラガーがワイドフォワードの位置に入る。


この時、両脇の2人はフォルス9のドーランから2つのメリットを享受することができる。1つはセンターバックとフルバックの役割・対峙する相手があいまいになり、空中戦での優位を手に入れられること。2つ目はスペースへの走り込み時にマークを離しやすくなることだ。


これはスペースの発見とファーストタッチを得意とし、タイトな状況で力を発揮することのできるブレアトン・ディアスのためにデザインされた戦術と言っても過言ではない。いくつかのシンプルな機能例を以下のブログから引用する。


Ben Brereton Diaz: How has he evolved since playing for Chile ?


まずは自らシュートを打って得点したシーン。左利きではない彼が左サイドに配置される理由は、もちろんサイドからカットインしてのシュートを期待されているからだ。




優れたドリブラーである彼に対し、間合いを詰める選択をするフルバックは少ない。この場面でもそれは例外ではなく、彼は比較的スペースを与えられた状況で2つの選択肢を持っている。この時は味方フルバックがオーバーラップしてきていたため、右足に持ち替え、見事なシュートでゴール右隅に突き刺した。



この場面でも彼は右に切れ込むことを選択したが、シュートではなくクロスを選ぶ。シュートを警戒したセンターバックが寄ってきたところをいなし、逆サイドに張っていたギャラガーが中央に落としたことで、空いていたスペースにドーランが走り込んで得点を挙げた。





右利きの選手を左サイドに置く戦術は流行の兆しを見せているが、その理由がここから垣間見える。2つの方向にドリブルできること、内目のポジショニングを取ることでフルバックのオーバーラップを促せること、そして中央では一列後ろの選手のスペースも創造できること。

ただ当然、これらを活かすことができるのは、ブレアトン・ディアスの攻撃面におけるオールラウンドな能力あってこそだということも忘れてはいけない。



今シーズンここまでの主要スタッツを見ても、リーグ平均と比較してブレアトン・ディアスが高い数値を残していることは一目瞭然だ。またこの表の中にはない数値だが、Average Carry Distanceでリーグ7位(12.48m)に付けている点も注目に値する。というのも、彼の上にいるのはブレナン・ジョンソンジョシュ・バウラージェド・ウォレスといった名うてのウインガーたちばかりだからだ。


体格やそのゴールスコアリングレコードから生粋の9番と誤解されがちなブレアトン・ディアスだが、実のところ彼は非常にユニークなプレイスタイルを持つ選手だ。それはウインガーとストライカーのハイブリッドといえば最もわかりやすく、彼が持つドリブルとキャリー能力の強みは、点取り屋が通常持ち合わせるレベルのものではない。


そして当然のことながら、「ボールを運べる」選手はカウンター主体のチームにとって不可欠な存在である。この点でもブレアトン・ディアスは、ブラックバーンの戦術の肝になっていると言えるだろう。


もちろんこれがブレアトン・ディアスの特徴を最大限引き出すために作られた戦術であることには疑いがなく、それが上位クラブでreplicate可能なものかどうかには議論の余地があるが、彼の強みがゲームの様々な側面に及ぶこともまた事実である。


この冬の移籍市場でも、多くのプレミアリーグのクラブが彼に関心を寄せた。最近ではなんとバルセロナの補強候補にも名前が挙がった。ブラックバーンはなんとか、彼を守り抜くことに成功している。


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#BreretonMania その先に


チリの人々からの彼への愛は、依然として増す一方だ。


1月27日のワールドカップ南米予選、アルゼンチンと相対したチリ代表のエースは、見事なヘディングで一時同点となるゴールを記録した。チームは敗れたが、ブレアトン・ディアスは代表内で不動の地位を占めるまでになった。


「彼がまだ小さい時、よくこんなジョークを言って笑っていました。『ベン、チリ代表でもプレイできるんだよね』って。だから種まき程度はしていたんですが、まさかそれが実現するなんて、夢にも思っていませんでした」


母親の夢物語は、今やチリ国民の夢物語だ。ベン・コービンは「ブラックバーンはサンティアゴにクラブショップを作らないといけませんね!」と言う。一人の男の功績によって、今までどうこじつけても接点を見出すことのできなかったブラックバーンの街とチリの間にさえ、実に奇妙でエモーショナルな接点が生まれようとしている。


自身の腹部にペプシの広告の1シーンをタトゥーイングしたあるブラックバーンのサポーターは、すぐさま各TV局・新聞から取材を受け、一夜にしてチリ中のセンセーションとなった。逆にチリでブレアトン・ディアスのポップソングを作曲したミュージシャンのRenzoには、彼をイーウッド・パークに招くためのファンドレイジングがブラックバーンのサポーターによって立ち上げられた。


Rovers fan becomes overnight Chilean sensation after tattoo of Ben Brereton's face goes viral


Rovers fans launch fundraiser to help Brereton pop song creator visit Ewood


多くのものを得たコパアメリカ期間中、ブレアトン・ディアスには特に忘れられない出来事があったという。


「決勝トーナメントのためにブラジルへ向かう時に、メディアがあるインタビューを見せてくれました。クリストバルという少年でした。彼はチリ代表のユニフォームを着ていましたが、そこにはマスキングテープで “BRERETON 22” と貼ってあったんです。その場ですぐにメッセージを送ってもらい、後でボリビア戦の時に来ていたユニフォームを送りました」




22歳の彼にこのような得難い経験がもたらす自信・興奮・感謝の思いは、果たしていかばかりのものだろうか。選ばれた選手にしか与えられない「カルトヒーロー」のステイタスは、確実に彼を成熟させ、強くさせ、より大きな舞台へと導いていく。




人々は自らの力でヒーローを生んだ。男はその機会に奮起し、歓喜し、期待に応え続けている。ベン・ブレアトン・ディアスは決して作られた存在などではない。「選ばれた」英雄なのだ。


彼の努力は続く。“Duolingo” で言葉を学び、練習場でスキルを磨く。周囲の視線がどう変化しようとも、その日々の姿勢は変わらない。それこそが、彼をこの地位に導いた家族の教えだからだ。


「父はいつもこう言っていました。『なんだかんだいっても、結局これはフットボールに過ぎないんだよ』と。パフォーマンスがいい時も悪い時もあり、ゴールが決まる時も決まらない時もある。でもいつだって楽しんでいたいし、このままの調子をキープできればいいですね。やはりもっともっとゴールを決めていきたいですから、頑張ります」




参考文献


The fairytale rise of Ben Brereton: How the man from Stoke became a cultural phenomenon in


'Surreal!' - Ben Brereton-Diaz on becoming Blackburn's Chile hero, facing Messi and starring in a Pepsi advert


'Cried and cried' - Brereton's family open up on his Chile exploits


Ben Brereton Exclusive: 'At 16, I Questioned Whether Football Was For Me Or Not'


'Something I'll never forget': Brereton on Chile and his Copa adventure - Planet Football


How Rovers ace ended up playing for Chile due to FM, now stars in Pepsi advert


Ben Brereton Diaz: How the Blackburn striker became Chile's cult hero


Player Analysis: Ben Brereton-Diaz


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Blackburn Rovers FC


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