自らの愛に背を向けたファンの戦い ブラックプールを笑顔が包んだ日【前編】 - EFLから見るフットボール

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自らの愛に背を向けたファンの戦い ブラックプールを笑顔が包んだ日【前編】



その日、長い戦いが終わった。屈辱にまみれ、幾重もの苦しみを強いられ、愛するものに背を向けることを余儀なくされたサポーターたちは、涙を堪えることもせず、ただひたすらに、喜びを叫んだ。

この戦いが生んだもの、それはファン同士、いや、この街全体の絆だ。この苦境を無傷のまま切り抜けた人間などいない。誰一人いない。それはあまりにも不必要で、あまりにも底意地の悪い勝負だった。長きに渡る暗黒の時代は、あらゆる手を尽くして、ブラックプールという街のコミュニティそのものを切り裂こうとした。

それらは全て、無駄だった。


3月9日、土曜日。その日まで数日間ブラックプールを覆った陰鬱とした雨雲は、眩いばかりの日差しによって、突然どこかへと蹴散らされた。青空がブルームフィールド・ロードに戻ってきたファンを出迎え、街の象徴とも言うべき海は一面オレンジ色の輝きを放った。

ブラックプールのファンが、オイストン一家に勝利した瞬間だった。


【悪夢の31年間】

この栄光の日の出来事を詳しく書く前に、まず我々は、この31年間ブラックプールに漂った恐ろしく不愉快なものについて触れておく必要があるだろう。

1988年5月、資金難で苦しんでいた当時3部のブラックプールを、1人の男がわずか1ポンドで購入した。その名はオーウェン・オイストン。イギリス版カルチュラル・スタディーズの第一人者である文化理論家のスチュアート・ホールの親友として知られる彼は、街で家族経営の不動産会社を営み、大きな成功を収めていた人物だった。

オーウェンは不動産屋らしく、老朽化したスタジアムの改築に熱意を見せ、次々に新たな施設をスタジアム内に建設していく。しかし1996年、サム・アラダイスの指揮の下でチームが2部昇格をかけたプレイオフを戦った年、オーウェンは16歳の少女をレイプした容疑で逮捕される。裁判の模様は多くのメディアによって取り上げられ、労働党はそれまで彼が行っていた党に対する多額の寄付を全額返還した。

彼は(その何度ともない復権への試みにもかかわらず)名誉を失ったが、その富を築いた不動産会社、そしてブラックプールFCは、手元に残すことに成功した。そして投獄中、一時的に会長を務めた彼の妻、ヴィッキーに対してファンから上がった辞任を求める声に激しい怒りを募らせたのが、当時28歳の息子カールだった。

1998年8月、カールはブラックプールのダイレクターの1人に就任する。父オーウェンの控訴が退けられると彼はマネージングダイレクターに昇格し、その後クラブの会長に就任した。なおこの間、1999年末には、オーウェンも仮釈放という形で出所を果たしている。

06/07シーズンに29年ぶりの2部昇格を果たした彼らは、徐々にリーグ内での足場を固めていった。この頃からの躍進の背景には、時を同じくしてクラブへの出資を開始したラトビア人ビジネスマン、ヴァレリ・ベロコン共同会長の存在を無視することはできない。そして09/10シーズン、ベロコンによる更なる資金提供の下で、イアン・ホロウェイが新監督に就任したチームは、6位からプレイオフを経てプレミアリーグへの昇格を果たしたのだ。


まるで幻像のように10/11シーズンのプレミアリーグを戦ったホロウェイのブラックプールについては、日本でもまだ記憶の片隅に留めている方が多いのではないだろうか。悪く言えば身の程知らずですらあったその攻撃的な姿勢は、彼らを他クラブのファンから見た『プレミアの中で他に好きなチーム』第1位に祭り上げ、サー・アレックス・ファーガソンは最終節で自らブラックプールを降格に追いやった後、「プレミアリーグは彼らを失ってしまった」とコメントした。

しかしそんな一見美しい思い出の中で、崩壊への序曲は既にクライマックスを迎えようとしていた。
ベロコンとオーウェンの個人的な融資によって2003年から放置され続けた新たなサウススタンドがようやく完成したこの年、ホロウェイは「働く上で恐ろしい環境」とクラブの練習場を形容し、10月にはキャプテンのチャーリー・アダムが2万ポンドのボーナスの支払いを求めてカールに訴訟を起こした。
年が明けた2011年1月、スタジアムの給湯設備が故障した際には、リヴァプール、マンチェスター・ユナイテッドをホームに迎えた間、ブルームフィールド・ロードが温水なしの状態(もちろん試合後のシャワーも!)での運営を強いられた。

本当の惨劇はここからだ。ブラックプールは昇格時、前年比およそ4200万ポンドの増収にもかかわらず、選手の給与総額が前年とほとんど変わらなかったことで大きな注目を浴びた。カールはそれまで決して大盤振る舞いをせず、特に代理人手数料の支払いに対して厳格な姿勢を見せてきたことから、財政面で常に高い評価を受けていた。

これだけなら、今の無謀なインフレを続けるプレミアリーグ、あるいはチャンピオンシップの全てのオーナーが見習うべき存在だと言えるだろう。しかし彼は、数年間で計9000万ポンド以上にも上るプレミアリーグからのパラシュートペイメントを受け取ることになってもなお、その異常な緊縮財政を続けていったのだ。

彼らが一線を超えたのは14/15シーズンのことだ。ノッティンガム・フォレストとの開幕戦を1週間後に控えた段階で、彼らは8人の選手しか登録できていなかった。誤解なきように改めて記しておくが、ブラックプールはバスケットボールのチームではない。パラシュートペイメントの支払い下にあり、7月に新監督のジョゼ・リガが就任した際には不躾にも“Riga Revolution”と宣った、正真正銘プロフェッショナルなフットボールクラブである。シーズンが始まる前、高まる批判の声に対し、カールはこのようなコメントを残した。

「私からのメッセージはシンプルだ。今ではなく、シーズンが終わった時に我々を『ジャッジ』してくれ」

シーズンが終わった時、彼らは今世紀最少ポイントタイの勝ち点26で、チャンピオンシップ最下位に沈んだ。就任時、獲得希望リストをその場で払いのけられたリガは10月に解任され、後を継いだリー・クラークも結果を残すことはできなかった。この惨状が監督のせいではないことなど、もはや火を見るよりも明らかだった。

4年前までプレミアリーグで脚光を浴びたクラブの選手たちは、練習場内の雨漏り対策に置かれたバケツを盛んに話題に上げるようになった。
ユニフォーム類は選手が自ら洗濯した。
提供される食事に満足できず、代わりに近くのマクドナルドで朝食を摂る選手がいた。
リザーヴの試合で怪我をしたある選手は、医療費を自己負担することを選んだ。彼は負傷から戻ってきたばかりだったが、前回の(クラブ経由での)診断が誤診であったために、負傷箇所を悪化させてしまったからだったという。

降格が決まったレディング戦では、ゴールキーパーのジョー・ルイスが自身のサインが入ったユニフォームを着用した。試合直前にそのことに気付いたルイスだったが、替えのユニフォームはもう一着も残っておらず、何よりこの時点で、クラブにキットマンは1人もいなかった。
プレミアリーグ時代からユニフォームスポンサーを務め、すこぶる悪い評判を持つサラ金会社“WONGA”でさえ、このシーズンを最後にスポンサー契約を打ち切ることを決めた。


そこまでして切り詰め、行方をくらましたパラシュートペイメントをはじめとする運営資金は、いったい何に使われていたのか。

このシーズンの3月に公開されたオフィシャルアカウントの数字は、全てのブラックプールファンを震撼させた。クラブから親会社である“Segesta Ltd.”へ支払われたローン額が、この段階で2770万ポンドに達していたのだ。“Segesta”の資金が、他の負債を生み出していたオイストン一家のビジネスに使われていたことは、もはや説明するまでもない。

また降格の翌年、オーウェンが自分自身に対して、彼が『長年に渡る街への貢献』にもかかわらず未払いだったと主張する1100万ポンドの給料を支払っていたことも、追記しておく必要があるだろう。

緊縮財政によって蓄えられた資金は、オイストン家の私腹を肥やすためだけに使われていた。それどころかカールは、病気に苦しむ元コーチのためにファンが立ち上げたチャリティ団体にさえ、資金集めのための許可を出さなかった。このような仕打ちを受けてもなお、ファンは声を上げることを許されなかった。ファンからの抗議に対し、彼があまりにも過敏な反応を見せていたからである。

201412月、スティーヴ・スミスという1人のサポーターが、カールにテキストメッセージを送った。その内容は明らかになっていないが、おそらくは思慮に富んだ内容ではなかったのだろう。それは考慮すべきことだが、だからといって、カールのこの返答に一切の言い訳が許されるべきではない。

「私は他の奴らが極めて愚かであるおかげで、成功を収めることができています。一方あなたはまったく価値のない人生を送っているから、手の届かない場所にいる人間にこのような知恵遅れのテキストを送るんでしょうね。(中略)あなたの人生は本当にクソだが、それは私の責任ではなくすべてあなたのせいです。せいぜい介護されながらの外出を楽しんでください。既に私たちが会ったことがあるとしたら、私はあなたのことをとんでもない発達障害者として記憶していたはずです。私の仕事は順調で、お金に溢れていますから。(中略)あなたのようなごみ人間と無意味なやり取りを続けることは不可能です。ペンキ塗り以外のことで、私があなたからアドバイスを貰うようなことは二度とないでしょう。助けを求めるにしても、あなたのような知的障害者からはまっぴらごめんです。必要とする時が来れば、ですがね。クソみたいなメッセージを送りつけるな。お前のような麻薬中毒者は、生まれるべきではなかった。人生を考え直し、自らスタジアム出入り禁止処分を考えろ」

テキストがリークされ、当初は一切の取材を拒否していたカールも、すぐに謝罪に追い込まれた。しかしその謝罪文においても、彼は自身の家族がサポーターから脅迫を受け続けていることを大げさに強調し、それらを警察に報告すべきだったという信じがたい一文を添えることで、徹頭徹尾被害者ぶる道を選んだ。


67年間の生涯をブラックプールに捧げてきたサポーターのフランク・ナイトは、インターネット上に書き込んだオイストン一家に対する批判のコメントに目をつけられ、訴訟を回避する代わりに2万ポンドの支払い、そして発言の撤回を直接求められた。支払いに合意せざるを得なかったナイトのために、サポーターたちはクラウドファンディングによって3日間で2万ポンドを集めた。

サポーターズトラストの会長、ティム・フィールディングは、ソーシャルメディア上でのコメントによってカールから脅迫を受け、会長を辞任しこの界隈から足を洗った。

この他にも、オイストン一家は次々にファンを追い詰め、金銭を巻き上げようとした。そのせいである者は失業し、ある会社は倒産の危機に瀕し、健康被害を訴える人まで出た。

いったい何が、彼をそこまでの愚行に駆り立てたのだろうか? 前述したものとは別のファンとのテキストの中で、カールは彼が「永遠に終わることのない悪夢のようなリベンジ」に挑戦していると述べ、究極的な目標はブラックプールをカンファレンスリーグ降格にまで追い込むことだとしていた。

リベンジ、それはつまり、彼の母親がブラックプールのサポーターからぞんざいに扱われたことを意味する。それが美しき家族愛として処理されるべきか、そもそもレイプで逮捕された父親のせいだということから目を背けた馬鹿げた逆恨みとして処理されるべきか。私はこの問いに対し、「正論」をここに容易く書き示せるほど、賢くはない。

いずれにしても、彼の行動は目に余るものだった。ブルームフィールド・ロードの外に置かれた「ブラックプールは金の成る木」と書かれたバナーの前で、カールはにこやかに笑って写真を撮り、息子のサムがそれをTwitterに投稿した。
カールは自身の車のナンバープレートを、“OY51 OUT”に変更した。
降格が決まった日、Twitterには夜のブルームフィールド・ロードで挑発的なポーズを取る正体不明のランジェリー姿の女性の写真が投稿され、この件について一家はコメントを拒否した。
その後の試合でファンはテニスボールとみかんをピッチに投げ入れる抗議を行ったが、それに対してカールは、テニスラケットを持った自身の写真を投稿することで反応した。

そしてシーズン最終戦、ブルームフィールド・ロードで行われたハダースフィールド戦で、遂にファンが立ち上がった。彼らはシーズン開始前のカールの言葉に敬意を表し、この日を「ジャッジメント・デイ」と名付けた。

試合前、ファンはスタジアムの外にある1953年にボルトンを4-3で下しFAカップ優勝を果たした際の伝説的選手、スタン・モーテンセンの銅像を、抗議集会の集合場所に選んだ。それを聞きつけたカールは、モーテンセンの銅像そのものを撤去する暴挙に出た。

集合場所は、モーテンセンの銅像から、「モーテンセンの銅像があった場所」へと変わった。

彼らの多くはスタジアムの外で待機していたが、試合を観戦していたサポーターも、この後起こる事態を察知していた。50分、ブラックプールが守るゴールの後ろからサイレンが鳴り響くと、数百人ものファンがピッチに押し寄せ、センターサークルを取り囲んだ。

10分、20分、1時間と経っても彼らはそこを動かず、試合の中止が発表された。ダイレクターズボックスには多くの者がよじ登り、また多くのものが投げつけられた。オイストン一家は、もうスタジアムを出たようだった。

長く、険しいボイコットの日々が、こうして始まった。







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