41歳、職業無職。コロナ禍の下部リーグを彷徨うフリーエージェントたち - EFLから見るフットボール

Substack(メールマガジン)更新中!

2023年7月から、もっとEFLについて知るために、イギリス・バーミンガムに移住しています。

EFL情報やイギリス生活記を毎週水曜日更新のSubstack(メールマガジン)でお届けしています!ぜひ下記アドレスから登録してみてください。

https://japanesethe72.substack.com

41歳、職業無職。コロナ禍の下部リーグを彷徨うフリーエージェントたち

 


「サッカー選手は夢を与える職業」という使い古された定型句がある。プレミアリーグの檜舞台で輝きを放つスーパースターはほんの一握り。そして「その他大勢」のフットボーラーの運命は、新型コロナウイルスの流行によって180°変わってしまった。

 

(この記事では大部分の記述を以下2件の記事に拠っています。いずれもコロナ禍で苦しむ下部リーグのジャーニーマンたちの実情を詳しく綴ったグッドリードです)

'I was an unemployed footballer at 41 - going into the real world is daunting'

 

'It feels like no one wants you' - why 2020 is a tough time to be a free agent

 

60歳のケヴィン・エリソン・シニアがアンフィールド近くの自宅で倒れたのは、625日、リヴァプールが30年ぶりにイングランドの王者に輝いた日のことだった。

チェルシーがマンチェスター・シティを相手にゴールを決め、リヴァプールのタイトル獲得が間近に迫ったことで、ケヴィン・シニアは道に自前の旗を広げようと外に出た。その作業には梯子が必要だった。彼はバランスを崩した。試合終了の笛はまだ鳴っていなかった。

41歳の息子、ケヴィン・エリソンは、医者から最悪の事態を覚悟しておくようにと言われていた。命は助かっても、甚大な脳へのダメージが残ることも考えられた。しかし約1ヶ月後、目を覚ましたエリソン・シニアはこう第一声を発した。「優勝はできたのか?

父親の容態が回復したことで、ケヴィン・ジュニアには束の間の安堵が押し寄せた。しかし彼に、そのセンチメンタルにいつまでも浸かっている余裕はなかった。


なぜならこの時、彼の身分は無職。コロナ禍の中、41歳、職歴もさしたる資格も持たない養育費持ちの無職。それが嘘偽りのないケヴィン・エリソンのプロフィールだったのだ。

 

Embed from Getty Images



この夏、エリソンは9年間在籍したモアカムからリリースされた。

2018年に自身の抱えるうつ病の問題を勇敢にも公表した彼は、そのユーモア溢れるキャラクターも相まって、リーグ全体に幅広く名前を知られる存在だった。EFL2番目の高齢選手にしてモアカムの象徴。昨年11月のジム・ベントリー監督辞任後は、37歳のGKバリー・ロッシュとともに選手兼任暫定監督も務めた。

Morecambe winger offers depression help

EFL最長在任期間を誇ったベントリー前監督(クラブの資金力のなさに嫌気が差し、自らナショナルリーグのファイルドに去っていった)との特別な信頼関係、また9年間で自らが築き上げたクラブ内でのステイタスは、しかしながら、皮肉にも新体制におけるエリソンの立場を窓際へと追いやった。

ベントリーの後を継いだデレック・アダムズが開いた最初のチームミーティングの場で、エリソンは選手として全てを捧げる準備があると新監督に力強く訴えた。しかし出場機会はすぐに減っていき、元日のブラッドフォード戦を境に、彼の名前はベンチ入りメンバーからも消えた。


「それがフットボール界の力学構造です。新しい監督が来れば、前の監督と親密な関係にあった者は真っ先に淘汰されるんですよ」


エリソンの毎週土曜日の居場所は、スタジアムからユースチームの練習場に代わった。普段の練習はランカスター大学のジムで行うようになった。

他クラブからローンの申し出が届いても、なぜかその話がエリソン本人に伝わるまでには不可解な時間を要した。スタッフや選手の一部も彼から距離を置いた。「僕と仲良くしているのがバレたらまずいからでしょうね」とエリソンは話す。 


「バッドエッグと見られていたわけではないと思います。口論という口論をしたのはなぜ使ってくれないのか聞いた時の一度きりですし、それにしたってどのクラブでも毎日起きているような類のものです。周りを巻き込んだり練習をサボったりするのも意味がないと思っていたのでやりませんでした。シーズン終わりには契約が切れるわけで、次のクラブでのことを考えれば身体を作っておいた方がいいですから」

「結局のところ、監督は無意味な対立を好んでいたのではなく、仕事をしていく上での厄介払いをしたのだと思います。新監督にとってそこに昔からいるベテランは邪魔な存在です。僕はドレッシングルームのリーダーでしたし、それ相応の発言力も持っていました」


シーズン打ち切り後、答えの分かり切っていた会談への出席をエリソンが拒否した翌日、モアカムは彼の退団を発表した。

 

 

「テレビでは多くの人々が職を失っているというニュースが流れていました。ふと考えると、もしフットボール界で再就職できなかった場合、どうやって社会経験を持たない僕が他の仕事にありつけるのかと不安になりました」

 

「いろんな考えが頭をよぎってこんがらがり、PFAのカウンセラーのところにも行きました。何週間かはそういう暗闇の中で過ごしていた気がします」

 

5月になり、彼の元へ監督たちから連絡が届き始めた。しかしその多くは、トレーニングセッションへのトライアル参加の誘いだった。


「彼らは『実力を発揮するチャンスだと思って来てください』なんて言うわけです。でも僕からしてみれば、『それはトライアルってことだろ? 俺はもう41歳で十分名の知れた存在じゃないのか。それならサンデーリーグで友だちと蹴ってた方がずっとマシだ』と」

 

オファーの多くはノンリーグのクラブから届き、その給与額も彼曰く「十分な」ものだったが、それはフットボール以外の職業とダブルワークした場合の話。ロックダウン下でいつリーグ戦が始まるかも定かではないような状況の中で、今後の生活の見通しを立てるにはあまりにも不確定要素が多かった。

6部のガイズリーからのオファーは検討に値するものだった。しかし彼らの練習はロザラムで毎週火曜日から木曜日にかけ19:00-21:00のスケジュールで組まれており、マージーサイドからのドライブを強いられる彼にとっては通勤時間が大きなネックになった。クラブ側は全ての練習に参加する必要はないとも言ってくれたが、それもエリソンの望む条件ではなかった。


「他の仕事と兼業した場合、17時に会社を出た場合でもラッシュアワーに巻き込まれてギリギリで、帰ってくるのは深夜…。だからといって金だけもらってさっさと帰る、所謂の『元プロ』と見られるのも本意ではありません。やるからには全てを捧げたい。いつもいないのでは、コミット度を疑われて当然です」


エリソンは行き先をEFLのクラブに絞った。彼の衰えることのない熱意は、プロレベルに可能な限り留まり、「一線級の相手」に対し自らを試す道を志させた。

41歳を迎えてもなお、彼はリヴァプールでのユース時代コーチに言われた「プロ契約のレベルに達していない」という一言に、またモアカムでの戦力外扱いに対して、必死に抗おうとしていた。

 

現実は容赦なく、彼に決断を迫った。


エリソンには守るべきものがあった。うつ病との闘いの最中、彼の元を離れた前妻との決別は、彼の財政事情を逼迫させた。貯金などあるはずもない。そしてそれは彼に限らず、チャンピオンシップ以下のレベルでプレイするほとんどの選手に共通することなのではないかとエリソンは言う。

 

「人々は皆、『彼はフットボーラーだから、あれもこれも手にしていて…』と言います。確かにこの職業は誇り高いものです。でもLeague Twoには20代にもなって実家に住んでいる選手が数多くいますし、彼らは週2万円程度しか貰っていないのに、練習に行くために毎日高速に乗らなければいけないんです」

 

エリソンがモアカムで最後に結んでいた契約は、手取りの月給にして約2000ポンド、日本円にして27万円というものだった。対してリヴァプールに住む彼の友人は、プロ選手になる夢を青年期に諦めざるを得なかったが、現在はフットボーラーよりもよっぽど職の安全が確保されたオフィスワークによって、エリソンの収入を優に超える給料を手にしている。

いくら世界広しといえども、30歳を超えてから逆に給料が下がっていくという意味では、フットボーラーというのは実に特殊な仕事だ。


エリソンはキャリアを通じて、常にプライオリティを「金銭」以外の要素に置いてきた。32歳でモアカムに加わって以来、主力の一人となり、チーム得点王にも幾度となく輝いても、クラブは年齢を理由に少しずつ彼の給料を削っていった。その過程では他のクラブからより好条件のオファーが届いたこともあった。彼は残留した。モアカムでの日々が気に入っていたからだった。

しかし7月の終わり、メルウッドに程近い自宅で、彼は思いを巡らせていた。今ノンリーグのクラブに加入しても、どの道12ヶ月後に同じ状況に陥るだけ。エリソンはこの夏、多くの時間をオンライン上でのジョブエントリーに費やした。スポーツのコーチング業はもちろん、リヴァプール港での検疫官、スーパーの店員といった仕事にも応募した。

 

「仕事ならば本当に何でもという思いでしたし、冗談ではなく『この手を汚してでも』と考えていました。なぜなら僕にはサポートしなければならない2人の子どもがいて、支払わなければならない家賃もあるわけですから」

 

 

9月の初め、倉庫作業の職に就こうとしていたエリソンの元に吉報が届いた。League Twoのニューポート・カウンティが彼に契約を持ち掛けたのだ。ニューポートの監督は39歳のマイク・フリン10年前、エリソンがローンで在籍したブラッドフォードでのチームメイトだった。

その頃には既に父ケヴィン・シニアも自力で歩けるようになっていた。15歳の息子チャーリー、10歳の娘アヴァが賛成してくれたことも、エリソンのウェールズ行きを決める後押しとなった。フリンはエリソンの能力を鑑み、トライアルを免除した。給料はモアカム時代よりも少なくなったが、この夏に提示されたどのオファーよりも良い条件だった。


「子どもたちを食べさせないといけませんから、当然お金も大事でした。でもそれと同じくらい、僕は周囲の人を見返してやりたかった。まだLeague Twoでもやれるんだぞというところを見せたいと思っています」

 

彼ほどのキャリアを持つ選手であっても、新しいドレッシングルームに入っていく時にはいくばくかの緊張を覚えるのだという。特に2013年にニューポートがEFLに復帰してからというもの、エリソンは彼らを相手に6ゴール6アシスト、そして3つのPKを獲得している。

ピッチ上で、ファンの前で、挑発的なパフォーマンスも行ってきた。スキンヘッドのエリソンは、試合前の多くの時間を整髪に費やしている相手選手がいた場合、必ず試合が始まってすぐその髪に手をかける。「僕は毎試合明確に敵を作るタイプの選手ですよ


ニューポートで最初に彼に声をかけてきたMFマティー・ドーランもまた、以前試合中にエリソンとやりあった経験を持つ選手だ。それでも、昨日の敵は今日の友。結婚し、幼い子どももいる27歳のドーランは、エリソンがずっとホテル住まいをしていることを知ると、自宅の最上階の部屋を彼に提供してくれた。

フィットネスレベルを確認するために出場したヘリフォードとの練習試合の後半には、彼の太ももを痛みが襲った。不安が頭をよぎったが、フリンは夏の間ほとんどトレーニングができなかった彼の事情を慮った。94日、エリソンは1年契約を結んだ。

 

「多くの人が『一日一日に集中すべきだ』と言いますが、僕にはそんなことはできません。なぜなら今、明日は常に曲がり角の先の見えない場所にあるんです。それが現実ですよ」

 




ポール・アンダーソンは父親のフィル、そして友人のピートがイースト・ミッドランズで営む小さなフェンス製造会社の手伝いをしている。「正気を保つために、というのが一番相応しい理由ですね

629日、アンダーソンはプレイオフの末League One昇格を勝ち取ったノーサンプトンの一員として、ウェンブリーのピッチに立っていた。既に勝敗の決した最後の数分間に途中出場し、チームメイトとともに喜びを分かち合った。


3日後に発表された翌シーズンのスカッドリストに、アンダーソンの名前はなかった。32歳の彼にとって、夏の契約満了はこれで6年連続。しかし今年は、事情が違った。

別の夏であれば、彼は簡単に次のクラブを見つけることができただろう。リヴァプールのユースで育ったアンダーソンは、2006年のFAユースカップ優勝メンバーの一人。年齢を重ねていく中でもフォレスト、イプスウィッチ、ブラッドフォード、マンスフィールドといったクラブでプロ通算400試合近くに出場し、19/20シーズンも昇格を手にしたノーサンプトンで25試合に出場した。

 

「昇格の大興奮からこうなるわけです。契約切れになることは覚悟していたとはいえ、昇格もしたし、その中で一定の役割を果たすことはできましたから、ここまで悪い夏になるとはというのが正直なところですよ。まだ32歳でピンピンしていますし、練習でも最前列を走っていました。まだ足も速いし、経験もあるし、何の問題もありません。でもこのコロナウイルスの状況によって、市場がおかしくなっているんです」

 

「同じような状況の選手は多いと思います。どのチームもスカッドサイズを縮小していますし、そうなれば若さは重要なファクターになります。変な話、降格圏に入らない限り今年は満足だというクラブも多いはずです。その状況をアドバンテージにしようとしているチームもあるでしょうが、大勢にとっての関心事は生き残ることです」

 

「僕は35歳で引退するプランを立てていました。それまではできると思っていました。あと3年足りません。それでもここまでやってこられただけでも、僕は幸運な方だと思っています。より悪い立場で苦しんでいる人だっているはずですよ。国全体が苦しみ、フットボールとて例外ではない。悲しいことです」

 

Embed from Getty Images

 

 

 

ジャック・ホブズは、他の選手と同様の悲しみの中でも今の状況を客観的に受け止め、パンデミックによって現役生活に終止符が打たれかねないという事態を受容している。

彼もまた、リヴァプールのユースで将来を嘱望された選手だった。キャリアを通じて怪我に苦しみながらも、レスターではLeague One優勝、その4年後にはハルでプレミアリーグ昇格を経験した。しかしここ8シーズンでの出場試合数は100試合をわずかに超える程度。32歳のその身体は悲鳴を上げている。

19/20シーズンをボルトンでプレイしていたホブズは、3月のリーグ中断とともに滞在していたホテルを離れ、レスターシャーにある自宅に戻った。それ以来、彼は妻と2人の子どもとの生活を続けている。

 

「学校が休みになっていた間は忙しかったですよ。でも今はそれもフルタイムに戻って、自分の中で『どうしていこうかなあ』と考えることがあります。もし許されるならばプレイを続けたいですが、そうでないのなら新しく何かを始めないといけません。これまでの15年間、資格もさほど持たないままに、僕はフットボール界の中で生きてきたんです。よく考えれば奇妙なことですよね」

 

「幸運にも僕の家族は困窮していませんが、無給状態が続けば多くの選手の生活が危うくなります。僕にだって家賃やカーリースの支払いがあります。状況が良くなる兆しもありません。僕はここ2,3年で引退が近付いていることを自覚し、少しずつそれに向けた準備をしてきました。でもこれが25歳の時だったら、何のプランも持っていなかったと思います。それが何より怖いんです」

 

ホブズはコーチングキャリアへの転身、またサルフォード大学で受講していたフィジオセラピーのコースを再開することも視野に入れている。それでも差し迫る直近の不安は、229日にプレイした0-0のアクリントン・スタンリー戦が、彼の384試合にも及ぶ選手キャリアの最後の試合になってしまうのではないかというものだ。

 

「連絡が来ればそれは素晴らしいこと。でも来なかったとしても、それはコロナウイルスがいずれ訪れる僕の引退を少し早めただけのことです。そうなればお金を稼ぐための他の何かを始めるだけですし、何も不満はありません。僕は自分のキャリアを誇らしく思っていますから。ただ今それがこうして終わることが、少し心残りですけどね」

 

Embed from Getty Images

0 件のコメント :

コメントを投稿