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火災、脅迫、ローヴァーズの絆。22年前、「フットボールリーグ史上最弱のチーム」の物語


199844日、午後310分。男は敢然と、センターサークルのさらに中央へと歩みを進めた。審判の手元、腕時計の針は、開始10分で止まった。

男の目には、決意が宿っていた。
男の心には、怒りが渦巻いていた。
男は皆に、勝利を誓った。

当時19歳だった彼は、名をマット・スミスと言った。その時、センターサークルに座り込まなければならない理由が、若く血気盛んな彼にはあった。

それは醜く、恥辱にまみれた彼らのシーズンを救うための、最後のチャンスだった。




【放火魔】

483430得点、113失点1997/98シーズン、当時のディヴィジョン3(4部)で最下位に沈んだドンカスター・ローヴァーズの惨たらしい成績は、今もなおフットボールリーグのシーズン最多敗戦記録として歴史に刻まれている。

このような成績を残したチームの内情を探る場合は、殺人事件の第一発見者よろしく、まずはオーナーを疑うことから始めるのが相場だ。


時は1993年まで遡る。

この年、一人の実業家が「フットボール・コンサルタント」という肩書でドンカスターの経営に参画した。
ケン・リチャードソン、マン島に本拠を構える企業の創業者として富を得た彼こそが、その先数年間に渡る大混乱を生んだ張本人だ。

当初、ファンは彼を好意的な反応で迎えた。

ドンカスター・ローヴァーズは、その歴史の大半をフットボールリーグの下層部で過ごしてきたクラブだ。この前年にも清算命令が出されシーズン2勝目が1月までずれ込むなど、幾度となく財政難のため苦汁を舐めてきた過去があった。
そのため豊富な資産の投入を約束したリチャードソンの参画は、まさに渡りに船と言うべき出来事だったのだ。

ただ当時は、謂わばインターネットが「大企業とポルノのためだけのもの」だった時代。「救世主」リチャードソンの素性は、実のところ誰もわからずにいた。
そして不運なことにこの男は、超A級の前科犯だったのである。


19823月、イギリス競馬界を震撼させた大スキャンダルの渦中に、リチャードソンの名前があった。彼の所有する2歳馬フロックトングレイは、単勝11倍という人気薄ながら、後続に20馬身差を付ける大楽勝でもって鮮やかにデビュー勝ちを飾る。

愛馬の勝利を信じ、多額の単勝馬券を購入していたリチャードソンに疑問の目が向けられるまでに、そう長くはかからなかった。2歳馬にしてはやけに発達した歯、あるはずのない前脚の傷。まもなく、レースに出走していたのは2歳のフロックトングレイではなく、3歳のグッドハンドという馬だったことがわかった。


競馬界への関与を25年間禁止されたリチャードソンは、次にフットボール界にその関心を向ける。

1990年、ノンリーグのブリドリンドン・タウンを買収した彼は、すぐさまあらゆる設備投資に注力しチームを強化していく。短い成功がピッチ上でも起こり、1992/93シーズンにはウェンブリーで行われたFA Vaseの決勝に勝利、優勝を果たした。

そして翌年、ブリドリントンは破産・チーム消滅の憂き目に合う。理由はホームゲームの観客数が3桁にも満たない試合が増え、収入が激減したからだった。
それもそのはず、この時既にローヴァーズとの関わりを持っていたリチャードソンは、このシーズンから本拠地を従来の場所から200キロ以上離れたドンカスターに移転してしまっていたのだ。

ともあれ、これでブリドリンドンに関心を配る必要がなくなり、彼はドンカスターの経営に本腰を入れるようになる。
手始めに自らの親族や友人で経営陣を固め実権を握ると、次に彼は新スタジアムの建設に乗り出す。

資金難のドンカスターでそれを実行するためには、当然まず今のスタジアムを売却する必要が出てくる。1994年、ホームスタジアムのベレ・ヴューを売りに出す広告が、リチャードソンによって“Telegraph”に掲載された。
…実のところスタジアムはリチャードソンの持ち物ではなく、ドンカスター市議会の所有物だったのだが。

この件を機にリチャードソンと市議会との間の対立が深まっていた19956月、ベレ・ヴューのメインスタンドが突如炎に包まれる。この火災でメインスタンドはほぼ使い物にならなくなり、ドンカスターは約10万ポンド分の被害を被った。


ほどなくして、これが放火事件だったことがわかった。犯人は元軍人のアラン・クリスティアンセンという男で、所謂傭兵だった。そして不用心な彼は犯行現場に携帯電話を落としてきており、その携帯には「よくやった」という雇い主からのメッセージが入っていた。

その差出人欄には、「ケン・リチャードソン」と書かれていた。



リチャードソンはその翌年に逮捕されるが、最終的な判決が下るのは19991月ということになり、それまでしばらくの間釈放されることになった。

しかし、ドンカスターの「後援者(Benefactor)」職に戻ってきた彼を歓迎する者は、もう一人もいなくなっていた。リチャードソンは、これ以上ドンカスターのためにはびた一文使わないと決めた。

金は出さないが口は出す」最悪のオーナーが誕生した瞬間だ。



“Banter Era”

96/97シーズンを19位で終えたドンカスターは、夏にポール・バーチ、ジョン・スコフィールド、コリン・クランブ、ダレン・ムーアといった主力を一気に放出し、97/98シーズンの開幕を迎える。

開幕戦はカーディフに1-2の敗戦。恥ずべき結果ではないが、次のリーグカップ、ノッティンガム・フォレスト戦は0-8、リーグに戻ってピーターバラ戦は0-5
前シーズンからリチャードソンによるメンバー選考への介入に耐えかねていた監督のケリー・ディクソンは、ここで解任された。

多くのオーナーはこういった監督からの苦情を事実無根だと否定するものだが、偉大な後援者であるリチャードソンは違った。
そこから数試合の間、なんと彼は自ら指揮を執り、チームを敗戦に導いた。

次の監督はコリン・リチャードソン(血縁関係はない)。公式戦6連敗で迎えた9月のマンズフィールド戦で引き分けシーズン初の勝ち点を獲得すると、そこから3試合ドローを続けた。

しかしコリンが残した最大の功績は、9月の終わりにDFのアンディ・ソープと契約したことだった。
守備陣に経験のある選手を加えたいという意図はわかる補強だったが、ソープの持つ経験はそれにしてもあまりに豊富で、フットボールリーグで最後にプレイしたのは5年前という有様だった。彼は2試合に出場した後、クラブを去った。

10月、残留争いの大一番となるブライトン戦を前に、GMマーク・ウィーヴァー2人の選手を補強した。
一人は9部のウォリントンから獲得したロブ・ソーンリー、もう一人はストックポート・サンデーリーグ(!)から獲得したGKのデイヴィッド・スミス。この大補強は残念ながら実らず、両者が出場し1-3で敗れた試合後、ドンカスターは「故意に弱いチームで臨んだ」としてFAから調査を受けた。

そしてこの試合の途中、安全面の理由で警察から途中退出を促されたケン・リチャードソンは、これ以降二度とスタジアムに姿を現さなかった。


ここでマーク・ウィーヴァーについて紹介しておこう。この物語のもう一人の主人公であり、「ケンおじさん」と共にファンからの怒りを最も買った人物だ。

ウィーヴァーがドンカスターにやってきた当時、フットボール界に彼の名を知る者はいなかった。ストックポート・カウンティのクラブくじのセールスマンという彼の前職を考えれば、それは当たり前のことである。

ウィーヴァーのクラブにおける役職はまるで猫の目のように変わっていった。それでもクラブの内情を少しでも知っている人なら、「リチャードソンの操り人形」という非公式な役職名はずっと変わっていないということに気付いていた。
ウィーヴァーはここから、リチャードソンの代理も兼ねて毎試合スタジアムに臨場するようになる。


10月、3人目の監督であるデイヴ・カウリングが就任する。
彼は人気のある下部組織の監督だったが、就任後の2試合に連敗したタイミングで、自ら職を辞した。お察しの通り、メンバー選考について家まで電話をかけてくるリチャードソンの介入に嫌気が差してのものだった。

11月、ダニー・ベルガラが4人目の監督となる。彼もすぐにリチャードソンからの介入にギブアップしたが、ベルガラの場合はダイレクターオブフットボールとして次の監督を支える道を選んだ。

その次の監督を探す立場となったマーク・ウィーヴァーは、ここに来てようやくドンカスターの監督職に最も相応しい人物を見つけることに成功する。マーク・ウィーヴァーである。

ウィーヴァー&ベルガラ体制となったローヴァーズは、なんとその初戦に勝利する。ホームのチェスター戦、観衆846人が見守る中でのシーズン初勝利。
ところでこの日は122日、シーズンが始まってから公式戦25試合目を迎えていた。

そこから彼らは再び負け続けた。97年最後の試合となった1228日のレイトン・オリエント戦は、0-8の大敗だった。ローヴァーズを哀れんだオリエントが試合時間15分を残してストライカー2人を交代させていなければ、その差はより広がっていただろう。

2月、結果的にシーズン唯一のアウェイ戦勝利がピーターバラの地でもたらされた。1-0の勝利に大きく貢献したのは、新戦力のパディ・ウィルソンだった。

同月、ウィルソンは無免許運転の罪で、懲役3ヶ月の実刑を言い渡された。



3月、クラブに残っていた2人のコーチが、75ポンドの手切れ金と共にリリースされた。
近所の公園で行っていた練習は参加自由となり、コーチングを行うのは今やベルガラたった一人になった。

この時点でクラブに残っていたプロ契約の選手は7人(!)だった。そこで焼け石に水ではあったが、3月のデッドラインデイにマーク・ウィーヴァーはもう一人プロ契約の選手を加えることに成功する。マーク・ウィーヴァーである。
「ショップマネージャー」、「ゼネラルマネージャー」、「監督」と変遷してきた彼のドンカスターでのキャリアに、「選手兼任監督」が加わった。

クラブは3月を終えた時点で8連敗、次の試合に勝たなければ早くも降格が決まるという状況に追い込まれた。

ようやく話が最初に繋がる。そうした中で迎えたのが、44日のハル戦だった。



【ローヴァーズを守れ!】

ドンカスター駅の隣にある小さなパブで、マット・スミスが静かに微笑む。テレビからは『リヴァプールが6700万ポンドでGKのアリソン・ベッカーを獲得した』というニュースを興奮した様子で読むキャスターの声が聞こえてくる。
この20年間の間に、フットボール界は大きな変化を遂げた。

スミスは今、投資企業のCEOとしてキャリアを積んでいる。愛するクラブを取り戻すために戦ったあの刺激的な日々は、彼が唯一無二の誇りとしている過去の思い出だ。

ドンカスターで生まれ育ったスミスは、あの97/98シーズン当時、プレストン大学に通う学生だった。しかし精を出していたのは勉強ではなく、ローヴァーズのための活動。FAに毎日「あんたたちはドンカスター・ローヴァーズについて何をやってるんだ?」とFAXを送っていたという。

FAからの返事は一度もなかったです。FAだけに “F(*CK)A(LL)” をしていたんですかね。それでもずっと送り続けていましたよ。『少なくとも受信してはいるはずだ』とか、『もううんざりしてますか?』とかね」

当時、サポーターズクラブはリチャードソンらとの平和的な問題解決を目指していた。
そうしたやり方で事を進める必要性はスミスにも理解できたが、20歳の彼はまだおいそれと感情を飲み込めるほど、精神的に成熟していたわけではなかった。

スミスはより直接的な行動を「大人たち」に求めたが、シーズン終盤までそれが実行に移されることはなかった。その一因には、リチャードソンからの敵対勢力に対する度重なる脅迫もあった。

ベレ・ヴューで批判的なチャントを叫んだファンはすぐに写真を取られ、身元を特定された。
リチャードソン体制を終わらせるために作られたサポーターズグループ “Save the Rovers” のメンバーは、タイヤをパンクさせられたり、早朝に無言電話を受けたり、車にクリームのペイントをされたりといった嫌がらせを受けた。

暴力的な脅迫も頻繁に行われていた。リチャードソンは「マンチェスターのアングラ」という言葉を使い、敵対勢力を威圧していた。

「私もベレ・ヴューの駐車場で連中にやられそうになりましたよ。マンチェスターから来たグループと、ボディガードとして雇われた地元の野郎どもがいてね。でも面白いのは、母のパートナーの娘がその内の一人と付き合っていて、逐一情報を流してくれたんです。試合に行く前にはよく脅迫もされましたし、忠告してくれる親切な人もいましたけど、当時は私も19歳だったので『来たいんなら来ればいいさ』とばかり言っていました。今思えば若気の至りでしたが、引くわけにはいかないって思ってましたね。とりあえず正面でメンチを切って、あとはとにかく始まらないように祈るだけだと」

プレストンに住んでいた彼は身柄を特定されづらく、結局直接の被害が及ぶことはなかった。しかし家族の一人は、自家用車を攻撃された。

そのような状況下で、勝てなければ降格というハル戦は、彼らのことをネグレクトし続けていたFAやメディアからの関心を引き寄せる最後のチャンスだとスミスは考えていた。
いつものようにスタンドに座ったその時、既に覚悟は決まっていた。


開始10分、スミスは突入の合図として笛を鳴らし、ピッチへと向かった。前にいた子どものファンに「一緒に行こう」と声をかけたが、彼は残念ながら勇気を出すことができなかった。

ピッチに足を踏み入れ、自分は単独で向かわなければならないのだと悟りながら、スミスはセンターサークルへと疾走した。そしてローヴァーズのトレーニングジャージと野球帽を身に纏った彼は、その中央に腰を降ろした。

スミスは同志の決起を待った。心の中では30分間にも感じられた30秒が過ぎた時、遂に親友のニール・ティッシントンが加わり、その後ろには数名の警備員がやってきた。

「お前たちは何をしてるんだ?」
「抗議してるんだ!」
「どかなきゃいけなくなることはわかってるよな」
「俺たちは死んでもここを動かないぞ」

ハルの選手として出場していたドンカスター出身のスコット・マックスフィールドが近付いてきた。彼は後に、ドンカスターに選手として加わることとなる。

「馬鹿共が、さっさと出ていかないと蹴り上げるぞ」
「蹴ってみろよ、それでも動かないからな。俺が脊髄を怪我したって言えば、連中はヘリコプターで俺を運び上げなきゃいけなくなるぞ」

遂にピッチの両側からファンがなだれ込んだ。片方のゴールでは、友人がセンターサークルに関心を引き付けている間に、パンクバンド “Big Flame” の元バンドマン、アラン・ブラウンが手錠でゴールポストに自らを括りつけた。
その鍵が自身の靴の中に入っていると彼が自白するまで、試合が再開されることはなかった。






そしてこの試合での一番の衝撃は、エイディ・マイクが追加タイムに決めた決勝点によって、ドンカスターが1-0の勝利を収めたことだった。
44日、シーズン4勝目。これ以降、彼らが勝利の美酒を味わうことはなかった。


(エイディ・マイクは今、マンチェスターでプライベートジェット会社を経営しており、クライアントにユナイテッドやシティの選手を多く抱えている)




【戦いの終わり】

最終節のコルチェスター戦では、再び試合中にピッチ乱入が起きた。今度は最初の乱入をきっかけにしてすぐさま多くのファンがなだれ込み、ダイレクターボックスにいるウィーヴァーに向かって退陣を要求した。
ウィーヴァーは観念し、スタジアムを後にした。

昇格争いをしていたコルチェスターの攻撃を長い間耐え凌いでいたドンカスターだったが、追加タイムを目前にして遂に力尽き、最後の試合は0-1の敗戦に終わった。
リーグ記録、シーズン34敗目だった。

それでもファンは、苦しい状況の中シーズンを戦い抜いた選手たちに感謝を伝えようとした。
一度は控室に下がった選手たちも、警備員からピッチに乱入した観衆が会いたがっていると伝え聞くと、笑顔でピッチに戻っていった。彼らがどれだけ弱くても、ドンカスターの全てのファンは、赤と白のユニフォームのために戦ってくれた選手たちのことを誇りに思っていた。

実に合計45人もの選手を起用したシーズン。一部の若手選手を除き、この年のドンカスターでプレイしたほとんどの選手が、その後フットボールリーグのピッチを踏むことはなかった。

そして誰もが、これがドンカスター・ローヴァーズの姿を見る最後の機会かもしれないと思っていた。





夏、なんとも幸運なことに、クラブの買い手が見つかった。同時に2つのコンソーシアムがクラブを買収し、なぜか全く異なる体制からなる2つの「ドンカスター・ローヴァーズ」がプレシーズンを戦うという大混乱もあったが、結果的には何とか落ち着いた。

19991月、ケン・リチャードソンにベレ・ヴューの放火を指示した罪での最終判決が言い渡され、彼はその後4年間を牢屋の中で過ごすことになった。


その後5シーズンをカンファレンスで過ごしたローヴァーズは、02/03シーズン、プレイオフファイナルでのフランシス・ティアニーの伝説的な「昇格ゴール」(ゴールデンゴール)でもって、暗黒の時代にピリオドを打つ。

その時、ブリタニア・スタジアムのスタンドには、マット・スミスとアラン・ブラウンの姿があった。

「(2-0リードから)同点に追いつかれたときは、吐き気がして過呼吸のような感じになりました。本当にエモーショナルな試合でしたよ。サー・フランシス・ティアニーがゴールデンゴールを決めた時は、ただ叫びました。振り返ってアラン・ブラウンを見ると、彼はただ泣いていました。その時私たちの中で、何かが終わったような気がしました」

「その後は少し燃え尽き症候群のようになって、毎試合は見に行けなくなってしまいました。『少し休まないとな。俺の役目は果たしたし、始まった頃よりは良い状況になった』という心理状態です。あの何年間かは、とにかくエモーショナルな時間でした」

騒動の発端となり目撃者でもあったベレ・ヴューは取り壊され、今は住宅地に整備されている。
ドンカスターは2007年に新スタジアムのキープモート・スタジアムを完成させた。収容人数は約15,000人、建設費用は2000万ポンドだった。

「今はとてもリラックスした姿勢でフットボールを見ています。私の中ではカンファレンスより悪い場所はありませんから。大学2年生の時はこの活動に没頭しすぎて進級できませんでしたし、多くの人々に多くの出来事を生んだ1年でした。1日何時間もこれに費やして、プレストンにいた友人には変な目で見られましたよ。我々は一つになったんです。その結果として今のポジションがあるわけですから、自分たちのやったことに誇りは持っていますが、それでもあれが起こってよかったとは思いません。競技面で言えば、何一つ楽しい状況ではなかったです」

「でも皆で一丸となって、各々がベストを尽くして状況を変えようとしたということには大きな意味がありました。ローヴァーズがなければ、この友情は存在しなかったのです。心からその時の状況を変えたいと思っていた力が、我々の団結を生んだのです。そこには魂があり、そこには興奮がありました。あんな経験はもう二度とできないでしょう。奇妙な時間でしたけどね。それを通じて人生を通じて続く友情を手に入れることができました。(ハル戦で)最初にピッチに入った3人は、今でもファンが集まるトーナメントで一緒にプレイしています」




フットボールリーグに復帰した03/04シーズンに4部優勝を果たしたローヴァーズは、その後2部、3部、4部でのシーズンをそれぞれ経験した。
現在は97/98シーズン開幕前に放出された主力の一人だったダレン・ムーア監督の下、League Oneで昇格争いを演じている。

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参考文献(当時の状況、スミス氏のコメントなどは全て以下のサイト・Twitterによるものです)





Doncaster Rovers, 1997/98: The most disastrous season in Football League history - The Set Pieces

当時Channel 5で放送されたドキュメンタリー “They Think It's All Rovers”



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