アストンヴィラとディーン・スミス 忘れえぬ記憶とともに - EFLから見るフットボール

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アストンヴィラとディーン・スミス 忘れえぬ記憶とともに




先に断っておこう。これから書くのは、今や立派なプレミアリーグの一員となったチームの話だ。このブログの名前は『EFLから見るフットボール』であるからして、今この記事を出すのは、もしかしたら適切ではないかもしれない。

しかし今、アストンヴィラがウェンブリーで歴史的な勝利を収めた今だからこそ、私はあえて筆を取り、一つのストーリーを伝えたい。


【ラプソディ】

今年のプレイオフファイナルは、「テリーとランプスの対決」として多くの注目を集めた。片やアストンヴィラのアシスタントコーチ、ジョン・テリー。片やダービーの監督、フランク・ランパード。往年のフットボールファンなら誰もが思いを馳せる、元チェルシーのレジェンド対決である。

しかしそこには、皆が見て見ぬふりをした明らかな非対称性もあった。テリーとランパードの陰に隠された男、それが他でもないアストンヴィラの監督、ディーン・スミスだ。


スミスが監督に、テリーがアシスタントに就任したのは、まだ記憶に新しい昨年10月のこと。サポーターから蛇蝎のごとく嫌われ、前代未聞のキャベツ投げ込み事件とともにクラブを追われたスティーヴ・ブルースの解任後、一時は新監督就任が決定的と思われたティエリ・アンリらの候補者を抑え、彼は後任の座を射止めた。

周知の事実だが、スミスはこの時、同じチャンピオンシップのブレントフォードの監督を務めていた。当時のブレントフォードはプレイオフ出場圏の6位。近年彼らが著しい躍進を果たす中にあって、その中心人物とされたスミスが安定した立場を捨て混乱状態のヴィラに行ったのは、傍から見れば一片の合理性もない選択のようにも思われる。


しかし彼には、このオファーを断れない理由があった。
それはアストンヴィラこそが、生まれながらにして愛した、たった一つの “Boyhood club” だったからだ。


スミス家は、筋金入りのクラレット&ブルーだった。ディーンの祖父、父、母、そしてディーン本人に弟のデイヴ。家族全員が愛したヴィラは、ディーンが思春期を過ごした1980年代に、クラブとしての黄金期を迎えていた。

427日付の“Times”紙、ヘンリー・ウィンター記者に対するインタビューで、ディーンは当時のことをこう振り返っている。

「父さんの父さんもヴィラファンだった。父さんはアストンで生まれ育ち、普段は工具の修理工をしていたから生涯を通して工場で働いていたけど、週末はヴィラのスタジアム警備員もやっていた。とてもクラブを愛していたんだ」

「父さんはある時免許試験に合格できなくて、『俺はもう二度と運転しない』と言ったから、運転をするのは母さんだった。黄色のヴォクスホール・ヴィーヴァに乗って、母さんが私や兄弟、いとこをブリストル・シティとのアウェイゲームに連れて行ってくれたことは今でも忘れない。父さんは今までの人生で見てきた中でも一番の案内役で、『そっちの道じゃない!』とよく言っていたよ」

ディーンにアストンヴィラの一部となることを宿命付けたのは、25年間に渡ってトリニティ・ロード・スタンドのスチュワードを務めた父・ロンさんの存在だった。ディーンとデイヴの2人も、最も熱心なヴィラファンが集うホールト・エンドの座席清掃を手伝い、そのご褒美にパイと飲み物、そして最も重要なことに、ホールト・エンドのフリーパスを貰っていた。

だからスミス兄弟は、あのリーグ優勝した1980/81シーズンの5-1で勝利したリヴァプール戦から、翌シーズンのヨーロピアンカップ制覇に至る道のりまで、ヴィラ・パークの伝説的な夜に何度も立ち会った。
もっとも彼らは、1982526日、ロッテルダムで行われたバイエルンとの決勝戦には行っていない。しかし家の真向かいに住んでいた控え選手、パット・ハードの家でよく子守をしていた縁から、とんでもない幸運を授かることになる。

「父さんが見に行かせてくれなかった。(準決勝の)アンデルレヒト戦で観客同士のトラブルがあったからね。だから家で見ていたよ。兄弟でユニフォームに身を包んで見ていた。(GKの)ジミー・ライマーが9分で(怪我のため)替わってしまった。『なんてことだ、どうなるんだ?』。代わりに入ったナイジェル・スピンクがスーパーセーブの連発だよ。クラブの絶頂期だったね」

「バーミンガムでの優勝パレードの時、友だちと一緒に見に行ったら、パットが見つけてくれて私をバスの上に乗せてくれた。11歳の時で、上に行くのは危ないから、下のデッキに通されたよ」

ヴィラの選手たちは1日ずつ、家にトロフィーを持ち帰ることを許された。

「パットは一晩の間だけ、ヨーロピアンカップを持っていた。彼は奥さんと、文字通りトロフィーを抱えて寝ていたよ。『落とすのが怖い、本当に落とすのが怖い』と言っていた。私たちもみんな彼の家に行った。その後『レッド・アドミラル』という馴染みのパブにトロフィーを持って行ったんだ。信じられないような瞬間だったね」

ヴィラファンという自身の原点を持ち続けつつ、ディーンは誰もが夢見るフットボーラーになった。しかし強靭なセンターハーフとしてウォルソールやレイトン・オリエントで活躍した彼が、アストンヴィラのユニフォームに袖を通す瞬間は、2005年に現役を引退するまで遂に訪れなかった。



2011年、トップチームでの監督解任に伴ってアカデミーからウォルソールの監督に昇格したスミスは、限られた予算の中で魅力的なフットボールを展開、次世代の有望監督として徐々に注目を集めるようになる。

最初にその可能性に賭けたのはブレントフォードだった。彼らが推し進める「マネーボール」戦略には、若手を重用し、クラブに美しいフットボールフィロソフィーを築き上げる、ディーン・スミスのような監督が必要だった。
4年間の在籍で、悲願のプレミアリーグ昇格にこそ届かなかったものの、クラブはスミスの指揮の下で、リーグ内での確固たる地位を得ることに成功する。

「次は昇格」。18/19シーズンのブレントフォードの好調なスタートを見て、誰もが同じ期待を抱いていた。他ならぬスミスもそうだった。しかし彼の心の、より奥深い部分には、幼少期から変わらぬ思いがあった。
自身が愛した輝かしい歴史が、過去のものになろうとしている。アストンヴィラは、「古豪」になってしまう。その運命の分岐点で、彼がずっと待ち望んだ、一つのオファーが飛び込んだ。

「本当に長い間、強い絆で結ばれてきたクラブだった。もちろん家族の絆という意味でもね。つい最近まで家族を連れてヴィラの試合を見に行っていたんだ。だからこればかりは、どんな状況であっても、『やりたいな』と思う仕事なんだ」

クラブのため、ファンのため、家族のため。ディーン・スミスは、アストンヴィラ史上29人目の監督になった。



就任時14位、バラバラになっていたタレント軍団ヴィラを、スミスは瞬く間にチームへと変えた。タミー・アブラハムが得点を量産すれば、ジョン・マッギンがピッチ上の各所から鋭いパスを繰り出す。
そして春、監督に負けるとも劣らぬヴィラへの思いを持つジャック・グリーリッシュの負傷が癒えると、ヴィラの快進撃が始まる。

3月から4月、プレイオフ圏内入りを左右する重要な時期に達成した、リーグ戦での10連勝。109年間の誇らしいヒストリーブックに新たな1ページを加えるクラブ記録更新の勢いのままに、ウェストブロムとのローカルダービーとなった準決勝を制し、彼らはウェンブリーへと駒を進めた。

アストンヴィラとダービー。それまでの無謀な投資がたたり、共にシーズン前にはFFPルールに抵触、財政危機が盛んに報じられたチーム同士の決勝戦。「勝って昇格できなければ…」。その先の答えは、皆が理解していた。まさにチームの今後数十年に渡る浮沈をかけた一戦だった。

だからこそ、アストンヴィラが持つ歴史の真の重みを知る2人の男が、この試合のキーマンになると目された。1人はグリーリッシュ、もう1人はもちろんスミス。幼い頃から、家族の一部に、コミュニティの一部に「アストンヴィラ」があった彼らだからこそ、わかるものが必ずある。

決勝戦当日、監督とそのチームをサポートするために、ウェンブリーには30名を超えるスミスの友人や親族が訪れた。しかしその中に、ディーンに最も大きな影響を与えた人物の姿はなかった。




ディーンの父親、ロン・スミスさんは、認知症を患っていた。

そして彼は、今この瞬間に自慢の息子が自らの愛するクラブを率いていようとは、もう夢にも思っていなかったのである。




【約束】

決勝の前日会見でディーンがこのことを口にすると、それを聞いていた記者席の間には大きな動揺が広がった。
しかし実際のところ、ウォルソールを率いていた4年前から彼は父親の認知症のことを秘密にはしていなかったし、ヴィラ監督就任後も何度かこのことに言及していた。先に挙げた“Times”のインタビューによれば、認知症の兆候は10年前から出ていたのだという。



彼はここ3年間、ずっと家にいる。昨日も会いに行ったけど、私のことが誰だかわかっていなかった。もちろんヴィラの監督だということもね。2009年のある夜、父さんと一緒にパブに行ったんだ。まず1パイント飲んでいて、『もう一杯いる?』と聞くと、『いる。ちょっとトイレに行ってくる』と答えてきた」

スミスがもう一杯ビールを買って持ってくると、そこに父親の姿はなかった。消えていた。

「それが初めて違和感を覚えた出来事だった。すぐに母親に病院の予約を取ってくれと言ったよ。認知症の初期症状だったね」

ウォルソール時代、ブリストル・シティに敗れた2015年のEFLトロフィー決勝後には、傷心の中その日のうちに実家に帰り、ロンさんを寝かしつけていた。ブレントフォードの監督となりロンドンに移り住んだ後も、常に地元への再引っ越しを考えるなど、気苦労が絶えなかったという。順風満帆に見えた彼の監督生活は、大きな悲しみとの戦いでもあった。

その間、ディーン・スミスという人間を支えたもの。それは言うまでもなく、家族の絆であり、コミュニティの力であり、アストンヴィラという生涯において彼の心に寄り添い続けたクラブの存在だった。

2017年4月、彼は家族を引き連れ、ヴィラ・パークで行われたバーミンガムとのセカンドシティ・ダービーに足を運んだ。昨年5月、シーズンが終わりサッカー留学中の息子の元を訪ねたノースカロライナでも、iPadを使ってヴィラとフルアムのプレイオフ決勝を視聴した。そして10月、スティーヴ・ブルースの後任候補に名前が挙がった時には、フィラデルフィアにいるいとこからこう連絡が入った。

「受けるべきだ、だってヴィラだぞ!」

2年連続のウェンブリー、今年は、ハッピーエンドが待っていた。一時は絶望的と思われたヴィラのプレミアリーグ昇格は、シーズン半ばに始まった美しき奇跡によって、現実のものとなった。

このプレイオフの主役は、ランパードでも、テリーでもない。ひたむきにヴィラを愛し続け、その運命を変えてみせたローカルボーイ、ディーン・スミスこそが、このストーリーの紛れもない主人公だったのだ。


そして「もう一人の主役」は、決勝の3日前、ディーンにこれ以上ない力を授けていた。

「金曜日、父さんの顔が見たくて会いに行ったんだ。彼は2分間頑張って目を開けていてくれた。そこで私はこう言った。『父さん、次に会うときは、僕はプレミアリーグの監督になっているからね』」

「彼は微笑んでくれた。それだけで十分だった。できれば意味を理解していてほしいけど、こればっかりは本当に非情な病気だから。私にとっては、笑ってくれただけでも十分なことだったよ」



ロンさんほど重篤な状態ではなかったが、実は私にも、家庭内に介護を必要とする家族がいた時期がある。その上で、これだけは断言できるが、介護の苦しみというものは、一度それを経験した人でなければ完全に理解するのは難しい。

忘れっぽくなることや汚物の処理といった表面的な問題を考えるだけでは、介護に伴う本当の困難に思いを馳せることは難しい。一つ言えることは、認知症とはそれまで築き上げた、誰もが不変のものと信じる家族の絆までをも蝕む、本当に恐ろしい病だということだ。

だからこそ私には、このディーン・スミスが描き切った一連のストーリーが、実に尊いものであるように感じる。しかも彼は、あの前日記者会見で涙を流すまで、この悲しみをおくびにも出さず、努めて気丈に振舞ってきた。故に、実は以前から何度か語られてきたことであったにも関わらず、多くのファンや記者がこのタイミングでロンさんの認知症について初めて知ることになった。


アストンヴィラにとって、プレミアリーグ昇格はゴールではない。もちろんそのことは、多くのフットボールファン、そして他でもないディーン・スミスが重々理解しているはずだ。

彼が見据える目標は、あの日隣人の家で、行きつけのパブで見た光り輝くトロフィーを、今度は自分の家に持ち帰ることだ。それは、「昇格したてのクラブ」としてはいくぶん非現実的な夢かもしれないが、「アストンヴィラの歴史」と照らし合わせれば、議論を挟む余地はない。

さらば、アストンヴィラ。また逢う日まで。
プレミアリーグへ旅立つ君へ、この記事を餞に代えよう。

一人でも多くの人に、この素晴らしい記憶を残すために。





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