世界中が激しい怒りに突き動かされ、スポーツの場においても試合前の膝付き抗議が日常となった2020年。しかしどうにも日本では、そのムーヴメントの世界的な高揚を身をもって実感できない日々が続いている。そしてそれは、もちろん、日本社会にとっての重大な損失の一つだ。
プレミアリーグが再開したばかりの6月23日、Twitterのタイムラインを見ていると、ベン・メイブリー氏の以下のようなツイートが目に飛び込んできた。
Black Lives Matterと言っても、「only」 black lives matter(黒人の命だけが大切)とは誰一人も言ってません。全ての命が大切だというのは当然です。しかし、今、制度的にも脅かされているのは黒人だから、黒人の命を守る重要性を主張する必要が残念ながらあります。白人は、元から守られています。 https://t.co/RsprHZQx3N— Ben Mabley(ベン・メイブリー) (@BenMabley) June 23, 2020
一般化が差別の基。— Ben Mabley(ベン・メイブリー) (@BenMabley) June 23, 2020
今回、主に欧米で黒人が実際に殺されちゃうほど制度的差別を受けているのでBLMがあるが、黒人に対する差別を非難する者はその他の差別を否定している訳ではない。
白人が黒人を
黒人が黄色人種を
日本人が白人を(はい!そのケースもあります!)
どの差別も駄目に決まってる。 https://t.co/MIoKDN1gSY
私は以前にも、ソル・キャンベルが置かれた立場を題材とした人種差別にまつわる記事を書いた。今見返しても稚拙さが目立つ文章で反省の念を禁じ得ないが、ブログを開設してすぐの段階でこのような記事を書いたことには、一定の意味があったと考えている。
言うまでもないことだが、差別の問題を抜きにして英国フットボール界を語ることは(いつの時代も)できない。フットボールとは、英国社会全体を反映するものだからだ。我々は英国国民ではないが、英国のフットボールに関心を抱く一個人としては間違いなく当事者であり、その社会の歪みの目撃者でもある。
では「フットボールを介した差別」とは、英国内に限った話なのだろうか。
先のメイブリー氏のツイートに対する返信群を見てもわかるように、日本のフットボール界隈における「差別」への当事者意識は著しく低いように感じられる。
今回の記事を書く上での問題意識は、まさにそれだ。
せっかく我々は、「英国のフットボールへの関心」という共通項の下にこの記事に集っている。ならば英国のフットボールから、EFLという切り口から、差別問題について考える機会があってもいい。
例によって長い文章になるが、ぜひ最後までお付き合いいただきたい。
【ダイバーシティ】
6月29日、プレミアリーグ・EFL・PFAの三者は、BAME(black, Asian and minority ethnic)の指導者を対象とした新規コーチ配置スキームを発表した。
BAMEの選手を円滑に指導者へと転身させることを目的としたこのスキームでは、20/21シーズンから1シーズンあたり最大6名のBAME指導者(PFA会員)に対し、EFLクラブにおけるコーチング職(23ヶ月間)の枠が確保されることになる。
現在イングランドのトップ4ディヴィジョン(91クラブ)において、監督を務めているBAME指導者はわずか5名しかいない。プレミアリーグ内の黒人選手の割合だけでも30%近くに上ることを考えれば、これは些か偏りすぎた数字だ。
プレミアリーグの黒人参入諮問グループ委員長も務めるドンカスターのダレン・ムーア監督は以下のように話す。
「今はBAMEの指導者にとって重要な時期です。誰もがコーチや監督業におけるダイバーシティがより広がるべきだという問題意識を共有していますし、この配置スキームはポジティヴな一歩になります。アカデミーの中にも若手指導者がファーストチームに進むための多くの役割があり、それぞれがキャリアを追い求めていく上での正しい枠組みを整備しなければいけません。私自身も自らの経験から、コーチ業を務めていく上での周囲からの豊富なサポートが持つ価値を理解しています。そのおかげで今の私は後進に対し道を開けるような立場にいるのですから」
【人種】
おそらく、ムーア監督の発言に異議を唱える人はさほどいないだろう。イングランドに限った話ではなく、多くのリーグにおいてBAMEの指導者は頻繁に見かける存在ではないし、その状況を変えるための取り組みの必要性は明らかだ。
ただ中には、このような考えを持つ方もいるかもしれない。「BAMEだけを対象に新しい支援制度を作るのは逆差別ではないのか?」、「白人の中にもチャンスに恵まれない指導者がいるのではないか?」と。
それらの質問、つまり今回EFLが導入するBAMEスキームを疑問視する声に対する私の答えは明白だ。しかしその前に、この問題を語る上で不可欠な大前提に触れておかなければならない。
それは「人種」という概念の虚構性についてである。
今日では、多くの人が当たり前のように「人種」という言葉を使い、その有効性を信じている。
しかし学術研究が進んだ現在では、「人種」という概念は科学的な根拠を全く持たないものとされているのだ。
しかし学術研究が進んだ現在では、「人種」という概念は科学的な根拠を全く持たないものとされているのだ。
そもそも現在広く用いられる「人種」の考え方は、ダーウィンが唱えた進化論の登場と共に世界に登場した(実のところダーウィンは『種の起源』の中で人間を論じていないが)。
「モンゴロイド」や「コーカロイド」といった言葉は今でもよく知られるところで、肌の色や骨格などから人類の特徴を分類できるとするのが「人種」の基本概念だ。
しかし遺伝についての研究が進んだ現代では、人間のDNAの塩基配列は99.9%同じで、遺伝的な違いも所謂「人種」概念で言われるような境界を区切ることはできず、肌の色を決定するような遺伝子も存在しないことがわかった。
それを受け、アメリカ人類遺伝学会を始めとした多くの学術団体も、「人種」という言葉を科学論文からなくすよう声明を発表している。
以上の2つは日英を代表する新聞がこのことを報じている記事としてリンクを貼ったが、これ以外にも「人種」概念の無根拠さを指摘する文献はいくつも存在している(記事最下部にリンクを貼っているので、興味があればぜひ読んでほしい)。
それでもまだ足りないという方は、ぜひ別タブを開いて「人種 根拠」や、「race scientific evidence」といったワードで検索をかけてほしい。人種無根拠論に反対する論稿も中には出てくるので、それを踏まえて以下の記述に進んでいただきたい。
【「虚構」の役割】
「人種」が科学的な概念ではないとしたら、それは何の影響力も持たない、存在を否定された考え方なのだろうか?
そうではない。「人種」概念は、科学的なものではないが、「ソーシャルコンセプト」としてはっきりとした実体を持っている。
ここで参照したいのが、パリ第8大学教授の小坂井敏晶氏の著書、『民族という虚構』だ。
この本の特筆性は、第1章・2章で「人種」や「民族」といった概念の科学性をきっぱりと否定した後に、その後の章で虚構であるはずの「民族」概念がどのように世間に多大な影響を及ぼしているかを論じている点にある。
つまりはこうだ。人間の思考パターンからして、自己意識というものは他者との比較(差異化)の中からしか見出すことができない。そしてそれは、自身の所属する「集団」をどこと定義するかによって、大きく変わってくるものだ。
例えば自身を「日本人」として規定する場合、自集団の特徴(=自らの特徴)を「アメリカ人」や「イギリス人」とされる人々との対比で認識するのに対し、自身を「関東人」と規定する場合は、「関西人」や「東北人」との対比が行われる。
例えば自身を「日本人」として規定する場合、自集団の特徴(=自らの特徴)を「アメリカ人」や「イギリス人」とされる人々との対比で認識するのに対し、自身を「関東人」と規定する場合は、「関西人」や「東北人」との対比が行われる。
実際のところ、こうした「民族」概念による対比には、実態を説明し難い根拠(同じ地域間でさえ、100年前と今では言葉や文化が明らかに変化しているように)が用いられており、またその認識さえも時と場合によって無意識に変化している。
(例えば「奥ゆかしい日本人」というステレオタイプと、「派手な関西のおばちゃん」というステレオタイプは、明らかに矛盾している)
(例えば「奥ゆかしい日本人」というステレオタイプと、「派手な関西のおばちゃん」というステレオタイプは、明らかに矛盾している)
上記の説明は『民族という虚構』の第2章に詳しいが、一方でこの「虚構」は「虚構」であるのにもかかわらず、我々が生きる現実社会において、人々を結び付ける上で重要な役割を担っているのだ。
災害時に「日本人は民度が高い」と言う政治家がいたとしよう。実際のところ、「民度」という言葉が何を指すのかは人によってまちまちであるし、それが遺伝子レベルで遺伝し得るはずもないのだが、影響力のある人物から「日本人」である自らのイメージが語られることにより、人々は自身の行動像を規定する。そして、それに沿った行動を自ら考え、取るようになる。
故意か偶然かに関わらず、誰かや何かが生み出した「虚構」は、それが真実と信じ込まれることで現実社会に影響を及ぼす。そして実のところ、虚構の絡まない現実などこの世界には存在し得ないのだ。
この考え方を踏まえると、人々に広く信じられる「人種」の、社会的概念たる所以が理解できるだろう。「人種」概念そのものを否定するのであれば、そもそも「人種差別」という枠組みそのものが成り立たない。確かに科学的には無根拠であるものの、「人種」や「民族」といった虚構が社会通念化しているからこそ、差異化のための差別が生まれてしまうのだ。
ここまでの要点をまとめると、
- 「人種」という概念は科学的な根拠を持たない(というのが現在では圧倒的な通説)
- 「人種」は科学的な真実性には欠けるが、社会的な通念として広く信じられているため、現実社会に対して大きな影響力を持っている
ということになる。
そして「人種」概念が事実ではないとすると、“Racism”という言葉に「人種差別」という訳語を当てるのが不自然であることもわかる。“Race”と“Ism”なのだから、正しい訳語は「人種主義」になるはずだ。
これは差別的な意図があるかないかに関わらず、(ただの無根拠な社会的概念である)「人種」と「性格」や「身体的特徴」を絡ませて語る行為自体がレイシズムであり、それを行った「人種主義者」こそがレイシストであるという理解に繋がる。
さて、ここからは以上の議論をフットボール界に当てはめて考えていく。
【ステレオタイプ】
「なぜ、人種差別がフットボール界で悪とされるのか」
人種差別をしてはいけないことは、(明確に理由を言えるかは別として)誰もが知っている。ではなぜ「フットボール界で」人種差別をしてはいけないのか。
まずこの疑問に我々が答えを持つべき理由を述べる上では、神戸大学大学院の小笠原博毅教授による2016年の論文「イギリスのサッカー研究の系譜とカルチュラル・スタディーズ」を参照するのが良いだろう。
小笠原教授は、フットボールがイギリスの社会学研究者から研究対象としての関心を惹き付けた理由、フットボールを通じてイギリス社会を見るアプローチの有用性を説く中で、以下のような記述を残している。(以下引用)
舞台装置がサッカーである理由、その固有性と同時に一般性をきちんと理解しなければ、サッカーそのものに人種差別の起源、理由、発生理由を押し付けられかねない。人種差別はサッカーに固有の発生起源を持つかのような、そのような「解説」や「専門家の見解」がまかり通ってしまうのだ。サッカーが人種差別する場合、本論の冒頭で述べた、階級、地域、そしてジェンダーという、サッカーという物語を構成してきた三つの要素が大切である。人種はこれらの三つの要素がさまざまなスタイルと力能で機能する様態なのだ。
ピッチ上で相手チームの選手や相手のサポーターから人種差別を受ける選手にとって、人種差別は「私の尊厳が脅かされている」という高度に抽象化された普遍的人権のことではなくて、「サッカーさせろ!」、「黙ってプレーさせろ」ということなのだ。サッカー選手であり、サッカーが職業なのだから、サッカーをさせろという、極めて具体的で状況規定的な権利の要求であるはずである。具体的権利の先には尊厳があり、人権があるのかもしれないが、サッカーにおける人種差別とは、実力を十分発揮する機会を脅かされている直接経験なのだ。
本来ならば「要求」という特別な行為を必要としないはずなのにそうせざるをえない状況に追い込まれる状態を、人種差別が創り出す。だから、サッカーから人種差別を問題にしなければならない。人種差別自体が悪いから問題にするというよりも、人種差別によって自分がここでサッカーをするはずの権利が今脅かされている、迫害されている、そこが出発点なのである。
(小笠原, 2016, P45)
ここから考えると、選手や指導者への実力の評価に対し、無根拠な「人種」の概念が持ち込まれること自体を我々は問題視すべきだ。たとえそれがポジティヴなものだったとしても、「人種」概念の科学性が否定されている以上、「黒人は身体能力が優れている」等のステレオタイプは不当な評価であり、レイシズムなのである。
(「黒人身体能力神話」についてはいくつかの書籍が出されているが、平素な文章でその内の一冊についてのレビューをしているページがあったので、ここで紹介しておく。もちろんこれも(「黒人は身体能力に優れている」という主張と同様に)あくまで推測に過ぎない記述ではあるが、一考に値する意見であることは確かだ)
なぜならその不当な評価は、選手としてはそれが良い方向に働いたとしても、指導者への転身時には却ってマイナスになる恐れがあるのだ。
「身体能力を武器としていた」とされる選手に対し、多くの人は「地道な努力を重ねる」などの指導者にとって極めて重要なイメージを重ねるだろうか?
つい最近にも、一つの印象的な論争があった。
それはプレミアリーグ再開後の6月、ラヒーム・スターリングがフットボール界における黒人指導者の不遇を嘆いたことに対し、フランク・ランパードが反論を寄せた一件だ。
フットボール界における体系的な人種差別を訴えたスターリングは、ソル・キャンベルやポール・インスと比べて「楽に仕事を得た例」としてランパードの名前を挙げた。ランパードはスターリングが「非常にカジュアルな」比較を行ったと批判し、次のように続けた。
「私の立場から言えば、彼の物事の捉え方は少し間違っています。もちろんチャンスは皆平等に与えられるべきですし、それは誰にも否定できないことですが、その中でどれだけ必死に頑張ったかが見られ、最終的な判断に繋がるのです」
この発言を深読みすれば、「自分は人以上の努力をした」、「チャンスを貰えない人は努力が足りていない」、こういったランパード自身の考えが浮かび上がる。だがレスター大学のポール・キャンベル講師は、ランパードのこの発言が完全に誤っていると糾弾する。
「自身のハードワークやエフォートの結果として監督業のチャンスを手にしたという彼の論点は、その自己認識の不正確さを象徴している。広く受け入れられつつも実情は不正確な、『フットボールは実力主義だ』という誤った信念を広めることにも繋がる」
「より重大な誤りは、業界内に広がる人種に起因する構造的な欠陥を無視した上で、それが黒人選手の努力不足に起因しているという推論を披露したことだ。それは才能がありながらも怠惰であるという黒人アスリートに対する伝統的なステレオタイプに合致している。また監督任命プロセスにおけるソーシャルネットワーク(業界内の知り合いの数)の重要性も無視していた」
キャンベル講師は過去に自ら行った研究において、黒人選手が指導者としてのキャリアを積む上で重要なソーシャルネットワークに恵まれていないという事実を明らかにしている。またこうしたソーシャルネットワークは同じ「人種」で固まることが多く、結果として元来の指導者の数が少ない黒人指導者には、なかなかチャンスが訪れない状況が再生産されるのだという。
まさにそこで対照的な例として登場するのがランパードだ。彼の父親はウェストハムの元アシスタントマネージャーで、親戚にはあのハリー・レドナップがいる。
実際にレドナップは、ランパードのダービー監督就任時に彼が果たした役割について、誇らしげにこう証言している。
「まず私は彼(ランパード)のためにイプスウィッチで監督就任の約束を取り付けました。(クラブオーナーの)マーカス・エヴァンズに電話を掛けて、『今監督を探しているなら、フランク・ランパードが適任だよ』と説得したんです。彼もランパードのことが好きだったので、就任のオファーが来ました。しかしフランクは『ハリー、あそこは予算がないから難しいよ。誰も選手を取ってこられないんじゃ…』と言いました」
「そんな時、急にダービーのポジションが空いたので、すぐに(会長の)メル・モリスに電話を掛けました。メルとは家も近くでずっと仲良くしていますからね。彼は経験豊富な監督を探していると言いました。私は『君は監督をとっかえひっかえしていて監督選びのセンスがない。いいか、フランク・ランパードにするんだ』と言ったんです」
「『経験がないからダメだ』と彼が言ったので、私は『グレアム・スーネスやケニー・ダルグリッシュのような偉大な監督は引退後すぐ指導者になってる。彼はフットボールを知っているし、偉大なプロだし、ダービーに多くのものをもたらす』と。アシスタントならと続けるメルに、『いや、彼は監督になりたがってる。頼むから一回会ってみてくれ』と念を押しました。次の日に彼らがロンドンで会った後、メルは私に『なんてことだ、ハリー。驚かされたよ。監督になってもらうことにした』と電話してきましたね」
ランパードはダービーでの職を得た。そして彼がアシスタントマネージャーとして呼び込んだのは、チェルシー時代からの親友で、こちらもそれまでのコーチングキャリアは皆無のジョディ・モリスだった。
確かにランパードはダービーで成績を残し、チェルシーに栄転を果たした。しかしそんなことは、この話においては一切関係がない。
フットボール界での大きな影響力を持つ親族の猛プッシュを受け、あろうことか2部のクラブを選り好みできる状況だった彼に、「努力の差」という言葉だけは使ってほしくなかった。
指導者を選ぶのはオーナーであり、会長だ。ボードルームの多国籍化が進む一方で、皮肉にも英国以外からビジネス面での成功を追い求めやってきた彼らが求めるものは、既存の価値観の下に作られた「名前」であることが多い。
そうでなくとも、コンサルタントとして英国内の実力者が関わっている場合もあれば、監督人事はイギリス現地のスタッフに任せっきりというオーナーもいる。
こうして差別構造の再生産が、止めどなく続いていく。
【チャンス】
私が今回のEFLの新規スキームを評価しているのは、これがフットボール界の現状に即した、地に足のついた施策だからだ。
FAとEFLでは2018年から「ルーニー・ルール」(新監督探しのプロセスにおいて、最低1人のBAME指導者と面談の場を設けることを義務付けたもの)が採用されており、EFLではそれ以降の監督交代39回の中で3人、BAMEの監督が誕生している。
しかし採用過程における詳細な内部データは公表されておらず、このルールが実際にどのように機能しているのかについて、外野から知る術はない。
イングランド版ルーニー・ルールの難点は、各クラブに対する違反時の罰則が明文化されていないことだ。
2003年にこのルールを最初に導入したNFLでは、施行直後にデトロイト・ライオンズがBAMEの指導者に面談を行わないまま新ヘッドコーチを決定し、20万ドルの罰金を課されるという事態に発展した。しかしその後罰則は形骸化し、2018年のオークランド・レイダースの実質的な規約違反が不問とされたのに前後して、NFLにおけるBAMEヘッドコーチ数は下落傾向を示している。
上っ面のルールを決めるだけでは、真の構造改革にはなり得ないのだ。必要なのは「指導者界にダイバーシティを広げる」という抽象的な理想ではなく、「全ての人が平等に機会を得る社会構造」を作るためのロジックだ。
その意味で今回の新規スキームは理に適っている。「人種差別」という大きな言葉に、BAME指導者の見方から「経験や知己を得る機会の不当な不足」というはっきりとした定義付けを加え、その状況にメスを入れるための具体的な解決案になり得る施策になっているからだ。
何度でも言うが、「人種」を理由に導かれる全ての意見は無根拠なものである。「無根拠なものが社会通念として浸透している」状態によって、不利益を被るBAMEの人々がいるからこそ、フットボール界はそれを是正しにかかる必要がある。
意思決定に影響を及ぼし得るステレオタイプを滅ぼすためには、それとは逆の意見を理論立てて説明するか、あるいはそれに反目する既成事実を作り上げるしかない。
この内今回の新規スキームが目指すのは後者の既成事実だ。(当然のことだが)「黒人の中にも優秀な指導者がたくさんいる」ということを証明する機会そのものが、これまでのルールの中では担保されてこなかったのだ。
それは誰のためにもならない状況だった。今や誰もが、フットボールの場に「肌の色」などの概念を持ち込むことの無意味さを頭の中では理解している。しかし無意識のうちに行う自身と他者との差別化の中で、ピッチ外のみならず、ピッチ内にも「レイシズム」が蔓延している。
もしかしたら、「人種」を理由にこれまで正当な評価をされてこなかった黒人指導者の中に、ビエルサやグアルディオラのようなゲーム自体を変えるだけの影響力・理論を持つ監督がいたかもしれない。それはフットボール界全体にとっての大きな損失だ。実際にそのような存在がいたかどうかはわからないが、いた「可能性」を全く捨てきれない(誰が否定できようか?)以上は、憎むべき損失なのだ。
人種主義は、人間の本能的な部分に端を発する、謂わば「原罪」である。その認識を一発で変えるようなロケットサイエンスの発明は、EFLはおろかノーベル化学賞クラスの研究者でも不可能だろう。
ならば我々は、「フットボール」という世界観の中で、実際に起こり得る問題から逆算した実践的な対策を考えていかなければならない。言葉や理念を声高に唱えるのもいいが、何にも増して重視されるべきなのは行動である。
そしてその出発点となるのは、フットボール界が抱える矛盾に気付く、少なくとも気付こうとする現状認識の姿勢だ。
今という時間軸の中の一点だけを見て、「黒人にだけ特別なスキームが用意されるのはおかしい」と言うのは簡単だ。しかしそれに至るまでのコンテクストに注意を払わなければ、芯を食った意見を言うこともできないだろうし、フットボールそのものを楽しむこともおそらくできない。
日本では(特にフットボールの場では)「非日常的」とされる「レイシズム」の問題。ここまでの記述を通じて、少しでもそれを身近に、また紛うことなき当事者としての意識を持っていただくことができたならば、この記事を書いた甲斐があったというものである。
最後に、フットボールを報じる立場であるメディアについて、少し筆を加えておく。
個人的な話で恐縮だが、私は現在大学院でスポーツジャーナリズムという分野を研究している。何もここで語れるような実績はなく、「研究をしている」と名乗るのも烏滸がましいほどなのだが、それでも論文執筆の過程では多くの文献の検討を重ねてきた。
日本におけるスポーツジャーナリズム研究は、決して先進的な分野とは言い難い。それは主にジャーナリズム学術界における「スポーツ」の地位の低さ(“Toy Department”とも呼ばれる)に起因しているが、イギリスやアメリカではその経済性やスポーツの地位向上によって、近年多くの研究が発表されるようになった。
これはスポーツ社会学の分野にも共通することだが、なぜそういった分野での学術的な見地からスポーツに注目が集まるかといえば、それが社会全体に対しての影響力を持っているからである。もっと具体的に言えば、ジェンダーや人種などの差別、社会格差などの問題が、スポーツを通じて表象するケースが多々あるからだ。
スポーツの場で表象されたそのような問題を伝えるのは、もともとの語源からして「媒介者」であるメディアである。これがスポーツジャーナリズム研究のコアバリューとなるポイントでもある。
従って従来の論評などとは別に、スポーツ報道は(社会全体の)様々な要素を媒介する。スポーツジャーナリズムが果たす、あるいは果たしてしまう役割は、このように多岐に渡るのである。
ところで先日、イギリスにおけるフットボール中継のコメンタリーを題材とした、一件の興味深い調査結果が発表された。
PFAの主導で行われたこの調査では、コメンタリーからの黒人選手と白人選手に対する表現方法に明確な違いがあることがわかった。
それはこんな具合だ。「知性」、「リーダーシップ」、「クオリティ」、「万能性」といった称賛の言葉は、黒人選手よりも白人選手に対して圧倒的な割合で用いられる。逆に白人以外の選手に対してはフィジカル系の言葉が多く用いられる傾向にあり、“strength”に関しては白人選手の4倍、“speed”に関しては7倍多く使われていた。
それだけではない。白人選手に多く用いられた表現の一つに、「勤勉さ(work ethic)」があった。一方で黒人選手に対しては、良い活躍をした時であっても、「好調ゆえの爆発」のような形容がなされている場合が多かったのだという。
上にも書いた通り、たとえそれが「選手として」良い評価だったとしても、それには必ず裏がある。何よりそれは紛れもないレイシズムであり、また引退後のことなども考えた場合にも立派なネガティヴキャンペーンになる。実際にこのレポートの中でも具体例として名前を挙げられているロメル・ルカクは、昨年のニューヨーク・タイムズに対するインタビューの中で次のように語っている。
「私が他のストライカーと比較される時、引き合いに出されるのは必ずスキルではない何かです。自分では1vs1のドリブルにも自信がありますし、ステップオーバーだってできます。相手を抜くことだってできる。忘れもしないのはユナイテッドに加入する前、『彼は「知的な」選手ではないのだから、獲得すべきではない』と公の場で言い放ったジャーナリストがいたことです」
メディアは物事の見方を媒介し、拡散していく。それが誤ったことであっても、人々に事実だと信じ込ませるだけの力がある。もちろんそこに悪意はないのだが、だからこそ、より一層の慎重な姿勢と責任感が求められる。
そのメディアにおける言説の中で、「黒人は先天的に身体能力が優れている」などの無根拠なステレオタイプが垂れ流される場合、社会全体で取り組むべき人種差別の問題にどのような影響を及ぼし得るのだろうか? もっと言えば、そこまでの影響力を自覚した上で、「スポーツ報道」という職業に携わっているのだろうか?
もちろん上記の調査の中に日本の状況は含まれていない。含まれていないが、ここまでお読みの皆さんなら、おそらくはどこかでそれに準じた日本語の言説に心当たりがあるのではないだろうか。
ここでもう一度、小笠原教授の論文から引用させていただく。
このような「適材適所」に基づいた発想の裏側には、こういう人種やこういう民族はこういうスキルが優れているはずだという前提があり、それに合わせてポジションを配置したり、観ている人たちの期待をそこに向けさせたりする。サポーター自身もそういう期待でゲームを見るという、サッカーを特定の方向に「導く」図式ができあがってしまってはいないだろうか。
なぜそれが人種差別なのか。特定の人種だと判断された身体に、「それ以外」の可能性を認めようとはしない視点が生まれてしまうからである。例えば、「身体能力が高い」が「ゲームを冷静に組み立てられない」という形容がなされたとき、この非対称性はかつて黒い肌を支配した植民地主義における「野蛮」と「文明」の論理に裏打ちされたものではないと、誰が自信を持って否定できるだろうか。そうではなく、その選手個人の向き不向きを言っているだけだと反論をする者は、単に無知であるだけでなく、著しく想像力を欠いている。
(小笠原, 2016, P46-47)
おそらく我々は、今後も長い間「人種主義」と付き合っていかなければならない。どれだけ理屈をこねようとも、身体のわかりやすい特徴や差異をピックアップして特定の価値観に当てはめるという試みは、人間生活の中で確固たる市民権を得てしまっている。
ただ、それを「社会的概念」とわかった上で付き合うのと、「科学的概念」と信じ込んで付き合うのでは、世界を取り巻く状況は大きく変わってくる。そのためにはもちろん一人一人の意識が何よりも重要で、短絡的な手法に加担しないという決意が必要だ。
そしてその上では、メディアが果たす役割というものが、これまでと同等かそれ以上に重要になってくる。「ポリコレ棒」が揶揄される昨今ではあるが、人種主義発言に関してはそもそも明確に間違っている可能性が高いのだから、より意識を高めていくのがあるべき姿ではないだろうか。
レイシズムは対岸の火事ではない。そのことはフットボールを通して、我々が住む日本社会にも重要な示唆を与えている。
【参考文献一覧】
小笠原博毅、「イギリスのサッカー研究の系譜とカルチュラル・スタディーズ」、『スポーツ社会学研究』24(1)、P35-50、日本スポーツ社会学会、2016
小坂井敏晶、「増補 民族という虚構」、ちくま学芸文庫、2011
小坂井敏晶、「増補 民族という虚構」、ちくま学芸文庫、2011
【参考文献一覧(サイト)】※記事内登場順
0 件のコメント :
コメントを投稿