2019年の最後に考えたいこと 選挙と政治とフットボール - EFLから見るフットボール

2019年の最後に考えたいこと 選挙と政治とフットボール


201912月、英国は再び世界中からの好奇の目線を独り占めにした。総選挙はボリス・ジョンソン率いる保守党の圧勝によって幕を閉じ、BREXITを巡る丁々発止の議論はまたもや論壇の中心に返り咲こうとしている。そして彼らが世界に誇るone of their ownの文化であるフットボールも、その混乱の中心に取り残されたままだ。



スポーツとは、どのようなものであるべきだろうか。

私は、誰しもにとって平等な場であってほしいと思う。どんなスポーツでも、最重要視されるべきものは結果ではない。スタジアムの中、あるいはテレビなどで中継を視聴する時間は、全ての人々が日々の喧騒を忘れ、異質の興奮に身を委ねるための場所として存在してほしい。社会がスポーツに求める最も根源的な役割は、おそらくそれだ。

しかし実のところ、「社会が求める役割」ほど、動的で掴みどころのないものはない。それは、時代によって移り変わる。それは、人々によって異なる意味付けをされる。

スポーツには、特にその国で国技とされる象徴的なスポーツには、本質的に付与された一つの特徴がある。往々にして、スポーツはその国の社会を反映するものである。

日本で言えば、相撲を例に取るのが一番わかりやすいだろう。数年前から相次ぐ体罰の問題を挙げるまでもなく、つい3日前にもインフルエンザに感染した力士が巡業に強制出場させられたという、俄かには信じがたいニュースが報じられた。

これはまさに、未だ一部世間にも残るかつて高度経済成長によって神格化された「日本式」の風習の負の側面を声高に強調するもので、(「働き方改革」という言葉が今さら流行ってしまうような)変革期にある日本社会の現状を映し出したものだ。

では、イギリスではどうか。
今回は、そんな「国の象徴」としてのフットボールについて、ここで改めて考えていく。


【労働党が勝てばチームは降格する?】

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1212日に行われたイギリス総選挙の結果については、既に多くの方がご承知おきのことだと思う。BREXITの是非が大きな争点になると目された今回の選挙は、結果的にBREXIT推進派の与党・保守党が前回から約50議席を上乗せする圧勝を収め、野党・労働党は歴史的な惨敗を喫した。

そんな総選挙を前に、とあるフットボールクラブが保守党への投票を呼び掛ける旗振り役を買って出ていたことは、日本ではあまり知られていない。

投票日を2日後に控えた1210日の朝、フリートウッドのアンディ・パイリー会長は、クラブ公式のTwitterアカウントに動画を投稿(現在は削除)し、その中で以下のような内容を語った。

「フリートウッド・タウン・フットボールクラブにとってベストの行動を取ることが私の役目だ。私はビジネスのオーナーでもあり、フリートウッドの街と彼らが持つフットボールクラブのことを常日頃から考えている一人の人間でもある」

「今この状況でクラブに起こり得ることは何か。答えはこうだ。もし労働党が政権を取った場合、我々のクラブは事実上降格してしまう。私のコアビジネスであるBES(パイリーの所有する民間の公益事業会社)からの出資は、労働党が勝てばおそらくストップさせざるを得なくなる。だからフリートウッド・タウンにとってベストなのは、労働党が敗れて保守党が再び政権を取ること。彼らは私のビジネスを引き続きバックアップしてくれるだろうし、それが引いてはフリートウッド全体のためにもなる」

パイリーがクラブの名義で保守党への支持を表明したのは、実はこれが初めてではない。彼は投票1ヶ月前の1114日にも自身のブログ及びクラブ公式HPに文章を投稿し、この日本拠地のハイバリー・スタジアムなどを訪れたランカスター/フリートウッド選挙区の保守党候補者、ルイーズ・ティッスルスウェイトの応援を行ったことを報告している。

(一部抜粋)
「漁業が急速に衰退して以降、この地域は長い間社会的・経済的な問題に悩まされてきた。そんな状況の中で、我々が雇用を創出し、またフリートウッド・タウンとそのコミュニティ施設への多額の投資を行い、フリートウッドの人々に健康的な日々と誇りに思えるものをもたらすことによって、この街を再生する一助を担えていることを心から嬉しく思う」

「しかし、労働党の掲げる政策が我々のビジネスにもたらす影響がいかほどのものか、その心配は言葉では言い尽くせないほどだ。BESの倒産がかなり現実的なものになるとまで言い切ってしまっても過言ではないし、それは即ちクラブのリーグ除名、またそれに伴う多くの人の雇用喪失にも繋がる。とにかくルイーズの選挙戦での成功を祈っているし、その後で彼女がここに戻ってくる日を楽しみにしている」



先に断っておくと、アンディ・パイリー2002年の買収当時9部にいたフリートウッドを10年足らずでフットボールリーグに押し上げ、現在は3部の昇格争いに絡むチームにまで成長させた真のローカルヒーローである。もちろんその過程で、2度の破産を経て1997年にようやく現在の形となったクラブへの多額の投資があったことは言うまでもない。

また、労働党が政権を取っただけで彼の会社が倒産するというのは、些か大げさではないかと思う方も多いかもしれない。

パイリーの主張の筋を理解するためには、労働党党首のジェレミー・コービンが掲げる政策について追記しておく必要がある。コービンは以前から電気・ガスといった国のエナジーセクションや鉄道、ブロードバンドなどを再び国営化するというマニフェストを打ち出しており、今回の選挙でもそれに対して根強い批判の声が上がっていた。

もちろんこれは、サッチャー政権時代の1980年代に断行された民営化政策へのアンチテーゼとして提唱された政策である。仮に労働党が政権を取ったところでそう簡単に実行できるようなことではないにしても、やはりあまりにリスクは大きく、英国病の時代を知るイギリス国民からの反発は免れないものだ。

そして何より、エナジーセクションが国営化された場合、現在民営企業として電力とガスの供給を行っている “BES Utilities” は、最もその影響を受ける企業の一つである。パイリーがここまでなりふり構わず保守党支持を呼び掛ける理由が、これで理解できるだろう。



考え方は人それぞれだ。彼のビジネス、またクラブに対する過去の貢献を鑑みて、意見の発信に理解を示す人もいるだろう。一方で、さはさりながらも、クラブ公式の意見としてそれを発信することや、「労働党が勝ったら手を引く」という少し脅迫めいた主張のようにも取れる言い方に反感を持つ人も、当然存在して然るべきだ。

基本的にスポーツ界にいる人間は、政治的な発信からは距離を置いた方が面倒事には巻き込まれずに済む。彼らはセレブリティの一種だ。彼らの発言に注目が集まる理由は、間違いなく政治的なものからではない。故にその意見は、多くの人の目に触れて「しまう」。

政治に関することを発信するのは難しい。どんなに中立を装い、自分の立場を隠そうとしてものを言おうとしても、必ず右か左から憎しみのこもった反応が返ってくる。ましてスポーツに関わっている、ある意味最も公な人々が政治的な意見を言えば、どうなるかは目に見えている。どんなに批判されても構わないという確固たる信念を持った人間でない限り、意見を述べること自体に及び腰になってしまうのは当然だ。

アンディ・パイリーはその覚悟を持った上で、毅然と保守党支持を表明し、ファンに理解を求めた。率直に言えば、私はこの点に共感を抱いている。確かにこれは厳然たるスポーツの政治利用かもしれないが、彼はその分一応は理解可能な理屈を提示していて、最低限の説明責任は果たしているように感じた。


そもそも、「政治利用」という言葉はひどく抽象的で、一括りにされてはならない行為がひっくるめられている。例えば、ベルリンオリンピックでヒトラーが意図した行為などは、もちろん避けるべきスポーツの政治利用だ(とはいえ、『民族の祭典』が後世の映画界に与えた影響など、考察に値する点はいくつもある)。一方で、昨年ペップ・グアルディオラが黄色のリボンを着用し続けたことなどは、前者とは少々性質の違う問題であるような気がしてならない。


【「ファンのため」の政策】

そしてことイギリスにおいては、フットボールというトピック自体、政治家たちにとって無視できないものになっている。「政治利用」という言葉を取り囲む境界線は、ここに来てさらに曖昧なものになる。

一例を挙げよう。今回の選挙に際しても、各政党はマニフェストの中に、アクセシビリティ、立見席、女子フットボールなど多岐に渡るフットボール関連の政策を盛り込んでいた。


その中で一際異彩を放っていたのが、労働党が提示したクラブの運営問題に関する政策である。ベリー、マクルスフィールドで深刻な状況が発生していることを受け、彼らはファンたちにクラブ運営への今以上の発言権を与えると約束したのだ。




具体的な施策はこうだ。


  • クラブのボードダイレクターに最低2人以上のサポーターを入れる(そのサポーターは国が認可した各クラブの認定サポーターズトラストから選出)。彼らは他のボードメンバーと完全に同等な決定権を有する
  • 監督の選定には必ずサポーターの意見が取り入れられる。従って(先日のモウリーニョ就任時のように)アンポピュラーな人物がボードによって選ばれそうになった時でも、ファンがそれをブロックすることができる
  • クラブのオーナーが替わった時には、認定サポーターズトラストには無条件で株式を購入する権利、2人以上のダイレクターを変更する権限が与えられる
  • テレビ局の都合でアウェイ試合の開催時間が変更になった場合、それまでに電車のチケット等を買っていたサポーターは交通費の払い戻しを受けられる

もしこのやり方が機能するのだとすれば、この世界にはとっくに人と人との争いなどなくなっていて、従って当然戦争も核兵器も存在せず、皆が手を取り合って毎日を過ごしているに違いない。

我々は知っている。イギリスで多くの試合が終わる土曜日の午後5時すぎ、BBCラジオの振り返り番組にはチームの不甲斐ない敗戦に怒り狂い、我を忘れて監督の解任を訴える見苦しい人々の罵声がこだましていることを。

ファンは、責任感がないからこそファンであり続けられるのであり、それに度を越した権力を渡してしまえば、フットボール界全体が混乱に陥ることは火を見るより明らかだ。

だいたい、「国が認可する認定サポーターズトラスト」になるためには、いくら国に積まなければならないのだろうか。これはかつてのソ連であったような、実質的なクラブの「国営化」にさえ繋がる可能性のある政策である。よしんばジェレミー・コービンがそうしなかったとしても、次にどんな人物がその権力を握るかはわからない。誰がどう解釈しても危険性が低いものこそが、真の優れたシステムである。


とにかく、個人的にはまったく賛同できない政策だが、それでも労働党は「フットボールはそれを愛する人々のためのものだ」などと言葉を付け加えて、これを支持者獲得のためのカードとして提示した。

ここに来てもう一度考えると、「政治利用」というとても大きな言葉は、主体も客体も、またその範囲も、かなり各々の主観に左右される言葉だということがわかる。

ケースごとの是非はまた別に問われるべき問題としても、少なくとも、今はもう「スポーツ」と「政治」が同じ文脈で語られることにアレルギー反応が示されるべき時代ではない。もちろん積極的に絡めるべきでもないが、一方で、もはやイギリスにおけるフットボールと政治はほぼ不可分の存在になっている。

政治のことをある程度理解しておかなければ、英国フットボール界で起きている現象について完璧に理解することはできない。

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私は今イギリスに住んでいるわけでもなく、何も関係のない立場から他国の政治事情に口を挟むのは実に恐縮だが、今回の選挙の結果を受けて一つ感じたことがある。保守党の圧勝に終わり、一応はこの総選挙によって、再びBREXITへの道筋が示された。しかしながら実のところ、今回の選挙で最も争点となったのは、BREXITの是非ではなかったような気がしてならないのだ。

イギリス国民は保守党とBREXITに賛成票を投じたのではなく、ジェレミー・コービンと労働党に反対票を突き付けただけなのではないだろうか。
この政権交代の大チャンスで、IRAとの関わりさえ噂されるような古臭い社会主義者を党首に据え置いてしまうような、センスのない労働党に対する嫌悪感が、この結果を導いてしまったのではないだろうか。

だから、公約通りBREXITが来年1月までに執行される可能性は、それほど高くない気がしている。実際に総選挙の得票率を見ると、BREXIT反対を訴えた党(52%)の方が賛成派の党(48%、うち保守党単体で約44%)よりも多い得票数を得ていた。これでは(少なくともBREXITに関しては)国民の信任を得たとは言い難く、おそらくこれから既視感のある与野党間のやり取りが再び展開される可能性が高い。

BREXITは(たぶん)まだ起こらない。しかしフットボールファンが真に憂うべきは、BREXIT廃止に伴うプレミアリーグの外国人枠の処遇だとか、移籍金バブルの崩壊だとか、そういった問題ではない。

もっと大きな問題が、イギリス政治の混乱に端を発して、既に今このフットボール界に大きな影を落としているのだ。




【「劣悪な環境」】

127日、ユナイテッドのフレッジに対して卑劣な行動が起きたマンチェスターダービーの後のスタジオで、ギャリー・ネヴィルが残したコメントは決意に満ち、義憤に溢れたものだった。

「国民はずっと、首相が移民について語り、警戒心を煽るようなことを言っているディベートを見ている。それが確実に燃料になっているんだ。ここ数年、フットボール界に限らず、国全体がその病魔に蝕まれている。(人種差別をしたファンは)試合を見に来て、フットボールをしている人に人種差別をしてもいいと思っていたということだ。恥を知るべきだ。度が過ぎる行動であり、罰則が与えられるべきだと思う。入場禁止くらいでは足りないし、多くの人に責任がある」


そして先週の日曜日、今度はアントニオ・リュディガーソン・フンミンが被害者となってしまったロンドンダービーの後で、彼は再び同様の主張をした。

「2週間前にも言ったことだが、我々の国では選挙があった。その選挙は、二大政党とその党首が1ヶ月以上に渡って『レイシズムを助長している、受け入れている』と互いを攻撃していた。そんな国家としての最上部でレイシズムが受け入れられているのであれば、ミクロレベルで物を考えても何の解決にもならないし、もっと大きなレベルで物事を考えないといけない。選手たちにピッチを出るよう促して、そうした行為が起こっているうちはエンターテインメントを中断するというのも手だ。そうでもしなければ、この状況の解決は促せない」




特に前者は、投票日が目前に差し迫っている状況の発言ということを考慮すれば、かなり踏み込んだ発言だった。また後者は、同席していたSkyのプレゼンター、デイヴ・ジョーンズがこのコメントの直後に「これはギャリー・ネヴィルの見解であり、Skyの見解とは関係ありません」という注釈を挟んだことで、ジョーンズがその後謝罪に追い込まれる(というより正確には、ジョーンズにそのようなコメントを強いたSkyへの批判が殺到した)という事態にまで発展した。

いずれにせよ、ネヴィルのコメントは非常に的を射たものと受け止められ、英国内で非常に大きな反響を呼んだ。

もちろん、彼の発言には根拠も伴っている。マンチェスターダービー翌日のコラムで “Guardian” バーニー・ローネイ記者が指摘しているように、昨年5月、レイシズム担当の国連特別報告者であるテンダイ・アチュメ氏は、当時のテリーザ・メイ政権を痛烈に批判している。

BREXITによる人種問題への影響を調査した彼女は、一連の政策が人々の間での人種的不寛容度の上昇に大きく寄与していると指摘し、多くの具体的な問題を提示した。


そして英国一の高級紙 “Guardian” の中でも随一の舌鋒で知られるローネイ記者は、このコラムでネヴィルの論調に賛同し、数々の印象的な言葉を残している。以下にその一部を抜粋する。

「ネヴィルがこの出来事に対して、政治を絡めて語ったことは正しかった。第一に、今話さずしていつ話すというのか? 第二に、政治家はどんな時でもスポーツについて言及し、そのトーン、声量、そして話し方を定義してくるではないか」

「ネヴィルが取ったもう一つの正しい行動は、その潮流を史上最も上手く利用したボリス・ジョンソンの名を出したことだ。ジョンソンが移民について言及したり、『影の支配層に制裁を加える男』として自らの存在をアピールしたりする時、私は未だに彼がそれを本心から言っているようには思えない。また点数稼ぎ以外の目的があるのか、あるいはただ単にご機嫌を伺うためにそう言っているのかの判断もついていない。『彼は本当はレイシストではないのではないか』とさえ人々に疑わせるほどペテンに満ちた人物が、現状では首相の座に座っている」

「ただ、結局のところ人々の目は騙せない。彼の部族主義的な考え方、そして階層の支配から見れば、ジョンソンは群衆の動かし方を完全に理解している。その結果二極化した人々は、まるでフットボールの観衆とよく似た性質を示すようになってきた。とても簡単に導かれる、それも誤った方向に導かれていくのだ」



【ファンダム】

この2019年には、ほぼ毎週のように、恥ずべき人種差別行為が英国各地のスタジアムで勃発した。198090年代以降、憎むべき過去を乗り越え急速な発展を遂げた英国フットボール界は、再びその誇りに背を向けようとしている。

その原因の一端は、間違いなく迷走を続けるイギリス議会に見出すことができる。彼らには責任がある。ボリス・ジョンソンだけではない(“Guardian”は左派系なので、彼は批判の矢面に立ちやすいという側面もある)。政治を茶番劇に変えてしまっている政治家たちひとりひとりに、国技たるフットボールの世界を混乱に陥れている大きな責任がある。

だが一方で、イギリス社会に大きな影響力を持つフットボールには、自ら叫ばなければならない声もある。

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レイシズムという巨悪に対して、ファンは一丸となって立ち向かわなければならない。それはイギリス人のみならず、イギリスという国が誇るフットボールに魅せられた人間であれば、そこに国籍など関係ない。

問題の根深さ、そして深刻さは、必ず理解されるべきことであるように思う。私は、この件について考えれば考えるほど、他人事とは思えなくなる。社会の分断、広まっていく排他的な物事の考え方は、残念ながら、2020年代も世間の関心事であり続けるだろう。

「他人事ではない」。日曜日、アントニオ・リュディガーに卑劣なチャントが飛んだまさにその時、日本のTwitter上で起きていた行為を多くの人が目撃した。ソン・フンミンに対する国籍を絡めた侮辱は、一片の価値も、意味も、正義も持たないものだ。そこに自覚はあるのか、私は想像したくもない。

最初に書いたように、私はスポーツが誰しもにとって平等なものであってほしいと思う。しかし平等は、今や与えられるものではなく、結束して掴み取るものへと変貌してしまった。

だから今回はスポーツと政治の関わり合いについて考え、政治と人種差別の関わり合いについて考え、究極的にはあるべき社会の姿についてまで考えを巡らせた。スポーツはいつまでも社会の姿を反映し続けるのではなく、社会を変えていく原動力にならなければいけない。そうでなければ、スポーツと政治の密接な関係は、いずれ我々に牙を剥く。


フットボールは労働者階級のスポーツだ。私は、それを「荒っぽい」というイメージと安易に繋げるようなことはしたくない。

フットボールの力は、社会に追随するのか、それとも抗うのか。選択権を持つのは、我々ファンに他ならない。

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